2010年7月21日水曜日

さらに「ジウ」


早々に、しかも軽薄にものを言いそうになってしまうのがわたしである。
良くも悪くも。
アハハ
「ジウ」は、今のところ三部作である。
そのⅠを読んだ限りにおいては名作の香りがする。
まず間違いはない。
犯人の造形が控えめだが、しっかりと深く掘り込んである。
他の人物造形も劣らず魅力的である。
しかも何よりこの物語がミステリーでありながら愛を書こうと執着しているところが魅惑的だ。
犯罪のなかに見え隠れする愛はもっとも深い形で現れる。
それを掬い取ることはきわめて困難だが、その金魚すくいが誉田のもっとも得意とするところなのだ。
誉田の小説の魅力はこの一点に極めつくされる。
誉田哲也の特徴である。
しかも彼はそれを女の側から書こうと試みる。
わたしは女性の心理がさっぱりわからない。
なるべくたずねようと努力しているが、その努力も最近のことである。
そういう付け焼刃で女性を理解しようというのが無理だ。
普通の男どもよりは多少はわかる程度である。
であるなら、この誉田の卓見とも言うべき洞察力はどうだ。
(ややこしいことを書けば、誉田の書く女性心理が本物かどうかはそれを知らないわたしにはわからないのですが…)
読者は、必ず基子にも美咲にも生々しく惹かれていくはずだ。
そして、絶妙のサスペンス素材としてのジウがいる。
わたしは歌舞伎町の中国人と薄っぺらではあるが親交がある。
普通人としては恐ろしくあるほうだと思う。
事実、ここに仙台として登場する女性は中国人で、わたしは彼女の二人の息子とも親交がある。
言っては悪いが、彼女は最底辺に近いところで歌舞伎町に生きている。
そういう女とつき合う男がどうなるかご存知だろうか。
彼女とのつき合いの仲で、生きることのたくましさを教えられ、生に真っ向から挑む女性に優しくなっていくのだ。
その真剣さにおいて日本の女性の多くは彼女たちに引けをとる。
異国の地で何の保証もなく働く彼女たちと少しでもつき合ってみれば、キミの上っ面な生き方の化けの皮ははがれる。
もっともそれを持ってキミを批判することは少々大人気ない。
とまれ、新宿歌舞伎町が舞台で中国人が主たる登場人物である小説にわたしは弱い。
「不夜城」がそうだったね。
馳さんには、幾つかそういった作品がある。
二つの作品を除いてはエログロでしかない馳星周をいまだに気にする所以である。
大沢在昌にもそんな小説があったな、あまりいいものではなかったが。
ま、それほど歌舞伎町に巣食う中国人の存在は大きいのである。
小説のネタに頻繁になるほど。
で、「ジウ」もまたわたしの中の何ものかに火をつけてくれた。
くりかえしますが、こういう特殊な事情がなくても「ジウ」は素晴らしい作品だろうと思う。
まだ、全巻読んでいないからね。
けれども、読む前にひと言。
この作品、注意が必要だ。
「ジウ」はこれだけの長編だ。
ある程度の助走が必要なのだ。
文庫本で言えば、160ページあたりまでは我慢しなければならない。
160ページまでは主人公の女刑事二人とその恋人になると思われる刑事二人の人物造形が行われ、人物造型にほぼ格好がつくところまでは小説の仕掛けに当たり、必須ではあるが、読むのが多少メンドーなのだ。
あとは、最後まで一気だろう。
「ジウⅠ」ではそうだった。
「ジウⅡ」「ジウⅢ」は、本日中に読み上げるだろう。
おお、昔の読書力と読書スピードが蘇ってくるではないか。
これならば、気になっているジュンパ・ラヒリもアン・タイラーも読み進んでいけるだろう。
ああ、黄金の本とのつき合い。
本との蜜月が始まった。
胸の中がそぞろ騒いでいる。
恋しい人と談笑する前のようである。

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