2010年7月11日日曜日

アデル

わたしに世話になっている年上の女性が一人いて、この方と新宿に映画「アデル」を見ることとなった。
例によって、あれやこれやの痴話げんかのような瑣末なわたしの周りの出来事を相談をしながら、上映前の二時間あまりを過ごす。

そのなかでなじみの店に訪れたり、世話になっている皮革職人の工房を訪れたりするのだが、なんといってもうれしかったのはわたしの大切な娘の美しさを保証して頂いたことだった。

「あの美しさは日本の女の子にはないね」

は、わたしの思いそのものであって、彼女の凛とした美しさの底に覚悟の仄見えることを理解していただいたことに我が意を得た。
それでも、あれはあなたの好みの美しさだと仙台へ行く女との共通点を指摘されたのは気恥ずかしかった。
自分の好みからはなかなか外れられないもので、そのキリッとした目線は、この人はと思っている何人かの女性に共通するもので、所詮、客観性といってもその程度のものかと笑ってしまう。

肝心のリュック・ベッソンの映画だが、監督は随分楽しまれたようで、フランスの文化の匂いがする映画となっていた。
文化の匂いがする映画は、良し悪しを離れて魅惑的なもので、そのエスプリにフランスを感じてしまう。
翻って、ハリウッド映画に文化は香るかと問えば、「ノン!」と答えるしかなく、返す刀で、日本映画はと問い直したときには、青ざめる。

映画が商業化され、プロパガンダとして使われるということは、まさにこのような事態を招くのであって、フランスの矜持を感じた次第である。
好みとすれば、「まあね」と言うものなのだが招待券で行ったものだから、それ以上の言及は控えたい。

まさに人間も同じことで良くも悪くも文化の香りを漂わす人がいいのだが、残念ながら昨今の日本ではこの種の人間にお目にかかることが随分少なくなった。

韓国の香りのするあの娘をわたしが好む所以である。

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