2010年7月10日土曜日

裏腹な心の響き

心にもないことをしゃべっていれば、その言葉は裏腹に響く。
それが、聞き分けられるかどうかは別にして、言葉自体はそうやって響いている。
わたしにそれが、しっかりと聞き分けられるようになったのは、ここ一年くらい前からである。

で、聞き分けていくさらにわかる。

もともと心などない人と心に別の思いがあって心にもないことをしゃべる人と。
心がない人は仕方がない。
薄っぺらな言葉を発し続けていくだけだ。
心がない人に心が宿ることはまずないから、一生そうやって言っても言わなくてもいいようなことをしゃべり続けるわけだ。
口害だね。

思いがあっての人は、少し哀しいが心配することはない。
そうやって心にもないことをしゃべっているうちに本当に心が失せてしまうからだ。

だから、大事にすべきは心のこもった言葉のやり取りを自分としてくれる人だ。

うちの職場は若い人が多いが、なかに一人、わたしと同い年くらいの人がいる。
この人がなかなか素敵な人なのである。
この人の素敵さを職場の何人が知っているのだろうか。
おそらく一人も知るまい。
いやいや、彼が親しくする若者数人は知っているだろうか。

この人とわたしはたまに軽口を交える。
フィリピーナの話などだ。
通り過ぎるように聞いていれば、いい年を取ったおっさんがいやらしい話をしているとしか聞こえないが、そのなかにわれわれは心を滑り込ませる。
そういうことができるようになったのは、二人きりになったとき心のやり取りをしているからだ。
わたしはそうやって心のやり取りのできるこの人を得た。
うれしい出来事である。

心とはそうやって守るものなのだと思う。
長くこの人といて、この人に心があることを見て取れなかった職場の若者には残念ながら心がないと言わざるを得ない。
もし、自分の心の有無を確かめたければこういう人と話すに限る。
彼は、見込みのない人には決して心を開かないからだ。

わたしは?

ああ、わたしも開かない。
けれども、わたしは相手が可愛ければ話すことがある。
まあ、単なるスケベな親父というわけだ。
笑っちゃうね。

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