2010年7月28日水曜日

何のために

わたしは根っこが真面目だから(笑わんでくださいよ)、誰かに恋をする時、何のためにかと思ってしまうことがある。
実は、以前そういうことを教えてくれた人がいたからなのだが、なるほど自問しがいのある問いだと思う。

人はその人を直線的に恋するだけではなく、シリアスな問題から逃げるためにも恋をする。
自分が抱えてしまったシリアスな問題から目をそらせるために一人の女まで利用してしまう身勝手な自分が存在する。

たとえば、わたしを見てみようか。
わたしは、20歳になる長女と交流がない。
言葉も交わさなければ目も合わさない。
笑顔など見たことはないし、笑い声も聞かない。
そのくせ心の奥底ではヒリヒリと焦げつくほど娘を思っている。
どうやらそれがわたしの実態だ。

そういうことに最近気がついた。
そして、異常に若い男女のことを心配するわたしの習癖の謎の中身も少しだけ垣間見えてきた。
(息子とも似たような関係だ。すべて好き勝手に生きてきたわたしが生み出したのだから、まさに自業自得)

わたしは、息子や娘への愛情を認めたくない。
認めてしまえば、その渇望が現在の家庭環境を地獄絵図へと変えてしまうからだ。
けれども認めたくない彼らへの愛情は見ないようにしても確固たるものとしてわたしの中に存在する。

いずれ述べるが、愛情というものは目的地をほしがるものだ。
愛情はどこかに向かいたがるのだ。
行き場のない愛情ほど困った代物はない。
愛する人を失ってしまったケースを考えればわかるだろう。

わたしの場合、溢れ出す娘への愛情が心の中に渦を巻いている。
そいつを維持する苦しさに愛情の目的地として誰かを探し出す。
探し当てれば、娘へ行くはずの愛情が彼女に奔流となって注ぎ込まれる。
彼女がわたしに愛されていると思ってしまう所以だ。
もちろん、それが彼女自身に対する感情に変わることもあるが、始まりは逃げ場としてその人を見つけ出したことは告白しておかなければなるまい。

もちろん、こんな馬鹿げた話を直接話しはしないが、自分への確認のためにここに記しておくことにした。

念のためにつけ加えれば、もしわたしと娘の関係が良好に流れ出したとすれば、ハッキリとつき合っている彼女の意味はわかる。
それでも彼女が必要ならば、それはすでにその人を愛し始めているのだし、必要ないと思ってしまえば、申し訳ないことだが、逃げ場としてしか考えていなかったことになる。

このような恋愛もあることを知っておいてほしい。

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