2011年7月7日木曜日

unlearn

繰り返しここで書いていることですが、人は自分がそれまで見聞きしてきたことによって、学んできたことによって自分の中にパターンを作りそれに当てはめて物事を理解しようとします。

ここでは、わかりやすく人の理解といったことに限定しますが、この人の理解に端的にその人の力量が出ます。
たとえば、先日職を辞した松本という大臣は、わたしは九州の人間ですけん、とか典型的なB型ですからと語っていましたが、これほど単純なパタン認識はありません。
もっとも彼の場合、聞く側をなめての発言かもしれません。

とにかく、人は、パタンに分けて他者を認識しようとします。
けれども、人間というものはそれほど貧困なパタンに押し込まれるものではないのです。
それぞれもっと細やかに見ていかなければその本質的なるものは見えてきません。(ま、本質があればのことですが)

長くこのブログを読んでくださっている方ならご承知とおもいますが、わたしのひいきの女性は、具体的には二人いて、ひとりは小学生で、ひとりは東京という大都会の最底辺に暮らす女性です。

小学生!? と驚かれ、ロリータかと直感されるのであれば、それがあなたのパタン認識です。
わたしは、その小学生の女の子から色々と説教されております。
そして、何度もなるほどと考えさせられます。
それとは別に最底辺の女性の生き方に幾度も眼を見開かされました。

これは、わたしのパタン認識を疑うという作業から産み出されたものです。

人は学びます。(learn)
けれども、そのあとにunlearnという作業を是非付け加えたいものです。
unlearnしておかなければ新しい人間には出会えないからです。

目の前の人間を自分の貧困なるパターンの中に押し込めて認識してはならない。

これが、わたしの矜持です。(気恥ずかしい宣言ですが)

と言うわけで、わたしは権力にこびません。
その権力が大きくても小さくても。
それは処世の上ではなはだやっかいな資質です。
と言うわけで、隠遁生活。
トホホ、といったところでしょうか。

それでも、unlearnをほどこし、その人をその人のまま受け入れようとするわたしの姿勢をうっすらと感じ、贔屓にしてくれる人もいます。
たいていは、社会的弱者であることが多いですが、わたしの精神的な支えとなります。

とにかく、ここでは、人は自分の中にあるパターンのいずれかに相手を沈めて理解しようとすること、けれどもそれ以外に人を理解する方法があって、そこにはunlearnという作業が不可欠なことを主張しました。

原発事故の対応もunlearn出来ていない人々は、たいていは似たりよったりです。
淋しいことですね。

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