2011年5月23日月曜日

記憶という視点で考えれば

今回の震災を記憶という視点で眺めれば、切ない事象も浮かび上がってきます。
わたしの勝手な感想として、読み流してください。

記憶というものは、もちろん個々人の身の内にあるものですが、ままあるケースとして何かに支えられています。
それは、ふるさと、という大雑把な存在だったり、ふるさとのあの海の光景だったり、幼馴染だったり、あの郵便局の曲がり角であったり、おばあちゃんのおはぎであったり、…さまざまです。

記憶というものの存在は、そういった他者からは、よく見えないものたちに支えられていたりします。

その支えるものを根こそぎ持ち去っていったものが、津波地震であったとしたら、今回の地震の被害は、大切な記憶(=思い出)の破壊という構図を示します。

そして、その津波被害のひとつであるあの福島原発がもたらしているものは、緊急避難という形による思い出への陵辱です。
人々が何故に汚染されたあの場所を離れたがらないかの、ひとつの理由は人が記憶によって成り立っているからです。
だから、若ければ、若いほど、離れやすいのですね。

その場所に思い出への扉が残されているのに、その場所へは戻れない、それが福島原発事故のもたらしたものです。

もちろん、人は支えてくれるもの抜きに単独で、記憶を思い出を持ち続けられます。
けれども、それはとても難しく、いずれフェイドアウトしていくもののようです。

カズオ・イシグロのフェイドアウトしていく記憶のメモリアルとして自分の小説はあるという言い方は、象徴的です。

情緒的に走りすぎますが、今、そこにある記憶を支えるもの、記憶への扉から無理やりに引き離される人間の苦悩がいかほどのものか、わたしには、わかりませんが、それでも想像してみようとは思います。

あなたたちは、強制退避勧告を出すときに、そのことを少しでも思ったのでしょうか。
福島原発事故のもうひとつの影に目をやったのでしょうか。

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