2011年3月22日火曜日

現地ルポ

現地ルポ・振り切れた測定器の針 
ジャーナリスト豊田直巳氏


 常磐線鉄橋の落下現場で放射線を測る日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の取材メンバー=13日、福島県双葉町(豊田直巳さん撮影)
 東日本大震災が福島第1原発を襲ったのは、私が事故発生から25年目のチェルノブイリ原発取材を終えて帰国した直後だった。チェルノブイリでの取材体験から日本がのっぴきならない事態に陥る可能性を直感、「まさか日本で原発事故取材に出掛けるとは」と思いつつ、3月12日に福島県郡山市に入った。

 翌13日、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)の仲間や写真誌「DAYS JAPAN」編集長の広河隆一さんと合流した。

 福島第1原発のある双葉町は、13日時点で既に避難指示が出ていた「原発から20キロ圏内」にあったが、入域制限しているチェックポイントまでは行ってみようと国道288号線を東に向かった。すると、予想に反して双葉町まで行き着いてしまった。検問も避難指示の案内板もなかったのだ。

 国道をまたぐJRの鉄橋が崩れ落ち、地震のすさまじさを見せつけていたが、人影はない。

 毎時(以下同)20マイクロシーベルトまで測定可能な放射線測定器を取り出すと、アラーム音を発しながらみるみる数字は上がり限界値の19・99を表示した。放射能測定が初めての仲間が「この数字はどのくらいのレベルなんですか」と防護マスクでくぐもった声で聞いた。「おおよそだけど、普段の東京の数百倍かな」と答える。既にかなりの高濃度汚染地に入り込んでいた。

 車を町の中心部に向けて進めた。人けのない家が並ぶが、地震の被害はそれほど見られなかった。そこで、もう一台の100マイクロシーベルトまで表示する測定器を取り出すと、これも針が振り切れた。

 この事実を行政当局に知らせようと、双葉町役場に直行したが、役場玄関の扉は閉ざされたまま。緊急連絡先などの張り紙もなかった。静まりかえった町に、ときどき小鳥のさえずりが聞こえる。

 入院患者に被ばく者が出たと報じられた双葉厚生病院に向かったが、ここも無人。玄関には患者を運び出したとみられるストレッチャーが何台も放置され、脱出時の慌ただしさがうかがえた。地震で倒れた医療機器や診療器具が散乱。消毒薬の臭いが漂う。

 原発から約3キロの同病院前でも測定器の針は100マイクロシーベルトで振り切り、上限に張り付いたまま。そこで1000マイクロシーベルト(1ミリシーベルト)まで測定できるガイガーカウンターを取り出したが、これもガリガリガリと検知音を発し、瞬時に針が振り切れた。「信じられない。怖い」。私は思わず声に出していた。

 放射性物質の違いなどにより同列に論じられないにしても、これまで取材した劣化ウラン弾で破壊されたイラクの戦車からも、今も人が住めないチェルノブイリ原発周辺でも計測したことのない数値だった。

 放射能汚染地帯の取材経験が一行の中で最も多い広河さんも信じられない様子。「これから子どもをつくろうと思っている人は、車から降りない方がいいかもしれない」と真顔で言った。

 放射能は風向きや地形によっても異なる。もう少し調べようと海岸に向かったが、病院から数百メートル行った所で津波に運ばれたがれきと地震で陥没した道路に行く手を阻まれた。放射能汚染に気を取られ、しばし忘れていたが、紛れもなくここは巨大地震と大津波の被災地でもあった。その被災地を五感では感知できない放射能が襲っている。

 慌ただしく町中の取材を終え、汚染地帯を脱しようと急いで帰る途中、町方向に向かう軽トラックに出合う。車を止めて汚染状況を説明すると「避難所にいるんですが、牛を飼っているので餌やりに行かないと。だめですか」。私に許可を求めるような困った表情で年配の女性が聞いてきた。「長い時間はこの辺にいない方がいいですよ。気を付けてください」。そうお願いするしかなかった。

 町内の道路をまたぐアーチには「原子力 郷土の発展 豊かな未来」との標語が掲げられていた。しかし、現実には未来を奪いかねない放射能の脅威に町はさらされていた。

   ×   ×   

 とよだ・なおみ 56年生まれ。イラク戦争、劣化ウラン弾問題などを取材。著書に「戦争を止めたい―フォトジャーナリストの見る世界」など。

2011/03/22 09:02 【共同通信】

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