岩手県
岩手県の三大麺といえば、「わんこそば」「冷麺」「じゃじゃ麺」ということになるが、どれもそうすぐれたものではない。値段がとうまさの関係が誇れるほどではないのである。うまくても高すぎてはいかんだろう。名物は高いのである。
まあ、名物というのはだいたいがそういうものだから、文句を言っても仕方はない。
ただし、一度は食べてみる価値はある。
それに「じゃじゃ麺」は安いではないか。特に「白龍」のじゃじゃ麺は。
「じゃじゃ麺」は平打ちのうどんに肉味噌がかかった、あれである。何でも、稲川方人さんは盛岡を散策しているうちに、行列が出来ている店を偶然、見つけて、入ってみたというのだから、見事な勘というしかない。「決して上品な食べ物ではないですよね」と稲川さん。たしかにおろしニンニクとショウガ、ラー油と酢をかけて、よくかき混ぜてから食べ、同じ皿に玉子を割入れて、スープにしてもらうのだから、お世辞にも上品とはいえない。しかし、その下品さがじゃじゃ麺の身上だろう。稲川さんは、それ以来、盛岡に立ち寄るときには、必ず白龍ののれんをくぐられるのだそうだ。東京の三軒茶屋にも、じゃじゃ麺の店があるらしいが、稲川さんは、白龍のイメージを壊したくないので、あえて行かないというのだから、かなりの通である。
とは、城戸朱理の言葉だが、はたしてそうか。
通というのをどういうふうに取るのかにもよるが、あの「白龍」に行列する連中が通といえるかどうか。
うまいまずいはかくいうほど難解な部類に属する。
東京で行列する連中もほぼ同じである。
通は果たして、行列するか?
辛辣な問だったりする。
うまいは高いに関係してくるが、この関係性をクリアしてさらに誇れる食い物は少ない。
秋田県横田市とは川口の町だが、その横田市が焼きそばの町として何とかしようとしているらしいが、どうだろう。
卵の黄身を混ぜながら食べるのが正式の食べ方だなどといっているのは、どうだろうか。
昔、銀座の「らんぶる」で「モカマタリのダブル」を呑んだときミルクを入れようとする客にあわててママさんが止めにきたのを覚えている。また、「灘コロンビア」の新井さんもまたビアタンブラーからビアタンブラーへと注ぐのを鬼のように止めていた。
この二軒は日本でもここといわせるだけの店だから別格だっただろうか。
食い物、飲み物合わせて食に対するこだわりとはそういうものであって、どこが日常を一線画す。
それがこの話の肝で、無意味なものに毅然として一線を画す、この感覚がなければ、何も始まらない。
そして、それを語るには、日常の食に対する確かな意見もさらに必要になってくる。
それは「物喰う日々」を読めばわかるだろうし、これを読んでわからなければ食は語らぬがよい。
そういうことだ。
そういう先に辻静雄やポールボキューズがいる。
残念ながらわたしがどこにいるかはわからない。
まあ、名物というのはだいたいがそういうものだから、文句を言っても仕方はない。
ただし、一度は食べてみる価値はある。
それに「じゃじゃ麺」は安いではないか。特に「白龍」のじゃじゃ麺は。
「じゃじゃ麺」は平打ちのうどんに肉味噌がかかった、あれである。何でも、稲川方人さんは盛岡を散策しているうちに、行列が出来ている店を偶然、見つけて、入ってみたというのだから、見事な勘というしかない。「決して上品な食べ物ではないですよね」と稲川さん。たしかにおろしニンニクとショウガ、ラー油と酢をかけて、よくかき混ぜてから食べ、同じ皿に玉子を割入れて、スープにしてもらうのだから、お世辞にも上品とはいえない。しかし、その下品さがじゃじゃ麺の身上だろう。稲川さんは、それ以来、盛岡に立ち寄るときには、必ず白龍ののれんをくぐられるのだそうだ。東京の三軒茶屋にも、じゃじゃ麺の店があるらしいが、稲川さんは、白龍のイメージを壊したくないので、あえて行かないというのだから、かなりの通である。
とは、城戸朱理の言葉だが、はたしてそうか。
通というのをどういうふうに取るのかにもよるが、あの「白龍」に行列する連中が通といえるかどうか。
うまいまずいはかくいうほど難解な部類に属する。
東京で行列する連中もほぼ同じである。
通は果たして、行列するか?
辛辣な問だったりする。
うまいは高いに関係してくるが、この関係性をクリアしてさらに誇れる食い物は少ない。
秋田県横田市とは川口の町だが、その横田市が焼きそばの町として何とかしようとしているらしいが、どうだろう。
卵の黄身を混ぜながら食べるのが正式の食べ方だなどといっているのは、どうだろうか。
昔、銀座の「らんぶる」で「モカマタリのダブル」を呑んだときミルクを入れようとする客にあわててママさんが止めにきたのを覚えている。また、「灘コロンビア」の新井さんもまたビアタンブラーからビアタンブラーへと注ぐのを鬼のように止めていた。
この二軒は日本でもここといわせるだけの店だから別格だっただろうか。
食い物、飲み物合わせて食に対するこだわりとはそういうものであって、どこが日常を一線画す。
それがこの話の肝で、無意味なものに毅然として一線を画す、この感覚がなければ、何も始まらない。
そして、それを語るには、日常の食に対する確かな意見もさらに必要になってくる。
それは「物喰う日々」を読めばわかるだろうし、これを読んでわからなければ食は語らぬがよい。
そういうことだ。
そういう先に辻静雄やポールボキューズがいる。
残念ながらわたしがどこにいるかはわからない。
ラベル: 食べ物
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