消極的自由と積極的自由
消極的自由は他者 の権力に従わないと発せられる他者の強制的干渉が不在の状態を意味する。(他者の側から見た自由)
積極的自由は、自己実現や能力によって規定されるものであり、自己の意志を実現すること、自己の行為や生が自己の意志や決定に基づいているかどうかという観点から見た自由である。(自己の側から見た自由)
ここで、このようなアイザイア・バーリンの自由に関する概念を持ち出したのは、昨今の日本の民衆の政治への積極的な蜂起がなぜ起きないのかについてふと思いついたからである。
つまり、消極的自由の側から考えれば、現在自分のいる場所の不自由の原因は、「他者の強制的干渉」の結果ではないかという疑問がわいてくるが、積極的自由の側からのみ考えれば、今の不自由のすべては自分の責任ではないかと自己批判の方向に向く。
この積極的自由の側からの結論が「自己責任論」であり、勝ち組といわれる側から提出されたものである。
そしてさらに注目すべきことは、同時に苦しい立場の人間の矜持としての最後の砦もまた「自己責任=積極的自由の考え方の結論」となっているところである。(俺が招いたことであるという一種の諦観の美学が彼らには根深い)
この積極的自由の側からの視線が、いまの自分たちの苦しみを経団連や国家や自治体という他者に直接激しくぶつけられない弱みとなっているのではないか、そうわたしは思ったのである。
貧富の格差の存在する社会において、それを解消し、社会権(国家による自由)を実現するために、政府が富者から高額の税金を徴収し、貧者に分配することや、一般に社会的弱者に教育や就職などをより多くの機会与えることにより格差を解消しようとする行為も、自己実現が困難な疎外された立場にある者の自己実現を容易にするという点で積極的自由の実現と考えられているのだが、積極的自由をここまでの発想にはっきりと広げ強く主張することはこの国の趨勢として強くはない。
それは、いま、ようやく起きつつあるところだ。
あまりにも苦しい状況ゆえに。
このふたつの自由という語の解釈の違いは、自由を他者に従わないことと見れば消極的自由の側面が現れ、自己自身に従うことと見れば積極的自由の側面が現れるというところにあるが、これは同じ現象に対し有効な見方で相互排他的な見解ではない。
消極的自由は「~からの自由」、積極的自由は「~への自由」とも呼ばれる。
問題は、積極的自由からは見えにくい(積極的自由を)阻むものが、自分以外にあるという事実が消極的自由の側から見えやすいということだ。
一般的には、消極的自由と積極的自由の相違は社会的な、とりわけ物質的条件によって、権利の上での禁止もないのに(?…ここがひとつのポイントとなる)、自己の望むことをなしえないとき、または当人が無知などから無自覚に権利の行使を放棄しているとき(?…ここもひとつのポイントになる)にこの状態を自由とみなすかどうかというような想定において議論となる。
この点での相違は、「結果の平等」と「機会の平等」というタームを使い語られることが多いが、今この国で起ころうとしつつある議論では、「権利の上での禁止が存在する」ということを強く認識しなければならない。(わたしはそう考える)
多くは自己責任という言葉を持ち出し、状況を「積極的自由」の側から説き始める議論に終始するだろうが、それはずらしであり、この問題は「積極的自由」の側面と同時に「消極的自由」の側面を大きくとらえなければならないのだ。
もし、あなたがわたし同様苦しんでおられるならば、自己責任というコトバで自分を責めることだけは、すぐさまやめてもらいたい。
まさにわたしたちは「消極的自由」を奪われようとしており、そのことが問題の中心なのだ。
あなたに大きな間違いはない。
あったとしても、人などはその程度のもので、そのことによって路頭に迷う必要はない。
どうだろう、ますます加速度的にひどくなるこの状況を見て、第一次産業の活性化を広く東南アジアも含めた視野で考えてみてはくれないだろうか。
優秀なる官僚諸君。
積極的自由は、自己実現や能力によって規定されるものであり、自己の意志を実現すること、自己の行為や生が自己の意志や決定に基づいているかどうかという観点から見た自由である。(自己の側から見た自由)
ここで、このようなアイザイア・バーリンの自由に関する概念を持ち出したのは、昨今の日本の民衆の政治への積極的な蜂起がなぜ起きないのかについてふと思いついたからである。
つまり、消極的自由の側から考えれば、現在自分のいる場所の不自由の原因は、「他者の強制的干渉」の結果ではないかという疑問がわいてくるが、積極的自由の側からのみ考えれば、今の不自由のすべては自分の責任ではないかと自己批判の方向に向く。
この積極的自由の側からの結論が「自己責任論」であり、勝ち組といわれる側から提出されたものである。
そしてさらに注目すべきことは、同時に苦しい立場の人間の矜持としての最後の砦もまた「自己責任=積極的自由の考え方の結論」となっているところである。(俺が招いたことであるという一種の諦観の美学が彼らには根深い)
この積極的自由の側からの視線が、いまの自分たちの苦しみを経団連や国家や自治体という他者に直接激しくぶつけられない弱みとなっているのではないか、そうわたしは思ったのである。
貧富の格差の存在する社会において、それを解消し、社会権(国家による自由)を実現するために、政府が富者から高額の税金を徴収し、貧者に分配することや、一般に社会的弱者に教育や就職などをより多くの機会与えることにより格差を解消しようとする行為も、自己実現が困難な疎外された立場にある者の自己実現を容易にするという点で積極的自由の実現と考えられているのだが、積極的自由をここまでの発想にはっきりと広げ強く主張することはこの国の趨勢として強くはない。
それは、いま、ようやく起きつつあるところだ。
あまりにも苦しい状況ゆえに。
このふたつの自由という語の解釈の違いは、自由を他者に従わないことと見れば消極的自由の側面が現れ、自己自身に従うことと見れば積極的自由の側面が現れるというところにあるが、これは同じ現象に対し有効な見方で相互排他的な見解ではない。
消極的自由は「~からの自由」、積極的自由は「~への自由」とも呼ばれる。
問題は、積極的自由からは見えにくい(積極的自由を)阻むものが、自分以外にあるという事実が消極的自由の側から見えやすいということだ。
一般的には、消極的自由と積極的自由の相違は社会的な、とりわけ物質的条件によって、権利の上での禁止もないのに(?…ここがひとつのポイントとなる)、自己の望むことをなしえないとき、または当人が無知などから無自覚に権利の行使を放棄しているとき(?…ここもひとつのポイントになる)にこの状態を自由とみなすかどうかというような想定において議論となる。
この点での相違は、「結果の平等」と「機会の平等」というタームを使い語られることが多いが、今この国で起ころうとしつつある議論では、「権利の上での禁止が存在する」ということを強く認識しなければならない。(わたしはそう考える)
多くは自己責任という言葉を持ち出し、状況を「積極的自由」の側から説き始める議論に終始するだろうが、それはずらしであり、この問題は「積極的自由」の側面と同時に「消極的自由」の側面を大きくとらえなければならないのだ。
もし、あなたがわたし同様苦しんでおられるならば、自己責任というコトバで自分を責めることだけは、すぐさまやめてもらいたい。
まさにわたしたちは「消極的自由」を奪われようとしており、そのことが問題の中心なのだ。
あなたに大きな間違いはない。
あったとしても、人などはその程度のもので、そのことによって路頭に迷う必要はない。
どうだろう、ますます加速度的にひどくなるこの状況を見て、第一次産業の活性化を広く東南アジアも含めた視野で考えてみてはくれないだろうか。
優秀なる官僚諸君。
ラベル: 社会
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