この世に棲家がないのなら
どこにいても自分の居場所ではないという気がする。
まあ、病気みたいなものだ。
それでも居場所探しに旅にでも出れば多少とも落ち着くし、自分の居場所につながるような場所に不意に出くわしたりする。
仮にそれを「アイデンティティ・プレイス」とよぼうか。
その「アイデンティティ・スペース」なるものは、自分の居場所そのものではなく、居場所へいざなう扉のごときものなのだろうと最近思うようになった。
居場所はこの世にあらず、仮想の中にあるというわけだ。
だから疑似体験として小説を読む、落語を聴く、日用品を作る、料理をする…多少なりとも仮想の混じった作業が、気分を楽にしてくれることがある。
しかし、それは残念ながら根本的なところにはつながらない。
これはまったくの私見ではあるが、終の棲家のようなものは大きく仮想に依存していると思う。(わたしにとっては)
したがって、特殊な人たちはそれを仮想の世界として作品の中に見つけようとする(=作品を作る)。
漱石などを思うときにそのことを感じる。
はたしてわたしがどのあたりに位置する人間かわからないが、そういった意味の仮想の世界を作り出す作業が
わたしに残された居場所探しの大きな可能性だと思う。
そこにはわずかばかりの愉快さもあるかもしれない。
心身がすぐれず、賀状をまだ書いておりません。
失礼の段お詫びいたします。
なんにしても
あけまして おめでとうございます
本年もお引き立てのほどを 御願い申し上げます
ラベル: 日常 考察
<< ホーム