食料も燃料も絶たれた"グレーゾーン"で苦悩する被災者たち
人の気配が消えた県道「豊間―四倉線」。地元の建設業者がガラを道の両脇に寄せてようやく通れるようになったが......。
東日本大震災の発生から早くも2週間が経過した。東京電力福島第一原発は、いまだ予断を許さない状態が続いている。原発施設から半径20キロ圏の地域に「避難勧告」、20キロから30キロ圏に「屋内退避指示」が出されていることは周知の通りだ。
一方、原発施設からおよそ35キロ前後に位置する福島県いわき市四倉(よつくら)町は、今回の大地震とそれに伴う津波で甚大な被害を受けた地区のひとつ。国から避難勧告や屋内退避指示は出ていないものの、一部の住民は放射能汚染を恐れて"自主的に"県外へ脱出。残された多くの住民は、自宅や避難所で"自主的な"屋内退避に務めているのが実情だ。町の多くのエリアはひっそりと静まり返り、商店や住宅があったはずの県道382号線を車で走ると、人の気配はほとんど感じられないという状態である。
そんな状況下にありながら、乾物屋を営む鈴木式子(すねこ)さん(80歳)は、今日も「営業中」の紙を店頭に貼りだし、野菜や干物などを細々と売り続けている。11日の地震発生時は、いつものようにこの店で営業をしている最中だったという。
「揺れたねぇ、びっくりしたよ。ただ、ここらは津波がそれほどじゃなかったのでよかったんだ。腰くらいまで水が襲ってきたけど、そこの金網(店の前にある幅5mほどの金属製フェンス)につかまって助かったんだ。これがなかったら終わりだったな(笑)」
かろうじて流されずに残った商品を売り始めたのは、地震発生から3日ほどたってからだという。
今年80歳になる式子さん。被災したとは思えないほどの明るい笑顔が印象的。お話を伺っている最中も震度5の余震があった。「逃げる場所なんてないし、これからも四倉に住み続けるよ。今ある商品だけでも売っていれば、少しは日銭も入るしね」
そう明るく語る式子さんだが、地震直後はカップラーメンや菓子パンを求めて客が押しかけたものの、保存の効く「非常食類」が売切れた後は客足はほぼ途絶えた。福島県産の一部の野菜から暫定規制値を超える放射性物質が検出された事実も逆風になった。訪れる観光客が間違いなくゼロという現状で、地元民が買いに来なければ商売にはならない。この日、トマトとじゃがいも、干物を購入した我々に対し、「今日の客はあんた(筆者)とあんた(カメラマン)で3人目だ」と式子さんは笑った。
また、運送業者らが「汚染地区」のレッテルを貼られたいわき市に来たがらないとの情報もあり、物資が市下全域に十分に入ってこない状況が続いている。必然的に式子さんの店でも仕入れが全くできていない状態だという。商品が売れても売れなくても、商売をいつまで続けられるかは不透明だ。
「津波はもう来ないよ、大丈夫だ」と話していた式子さんだが、「放射能は心配じゃないのですか」との問いには、数秒の沈黙の後に「私らは最後までここにいるよ」と静かに答えた。
一方、息子の久幸さん(53歳)も、津波の発生時は式子さんと共にフェンスにしがみついて難を逃れた一人。30キロ圏から外れる四倉地区を「グレーゾーンだ」と表現し、おっとりした口調ながら、見通しの立たない今後への不安と苛立ちを隠そうとしない。
手書きの「営業中」の紙を貼り出し、わずかに残された野菜や乾物を今日も売る。取材に対して一気に思いのたけを吐き出した。「20キロは逃げろ、30キロは自宅にいろって、じゃ、31キロの人間はどうすればいいのかという話ですよね。逃げるも居続けるも自分で勝手に決めろと言われてるわけでしょう。そんなこといっても、情報もないしどうしていいかわからない。政府が責任をもって、『こういう理由でこれだけ危険、だから逃げなさい、その負担は国や県が持つ』とはっきり言ってくれないと、住民は財産もなくして逃げる力もない。そもそもガソリンが全然ないんですから」
そう不安げに語る久幸さんの本業は漆職人だ。実は、福島第一原発から10キロ圏内にある神社から昨年メンテナンスを依頼され、漆や金箔の張替え工事を終えたばかり。リフォームを終えた神社の鳥居や建物が、地震の被害でどんな状態になってしまっているか、「気がかりでしょうがない」と顔を曇らせた。
おりしも枝野幸男官房長官は25日の会見で、「屋内退避」が出ている30キロ圏の住民について、「物流などで停滞が生じ、社会生活の維持継続が困難になりつつある」との認識を示しながら、「自主的に退避をしてもらうことが望ましい」とコメント。ことここに至っても、国は被災者に<自己責任で努力せよ>との方針を貫くようだ。30キロ圏外については推して知るべしである。
通りかかった四倉地区に住む別の男性が、吐き捨てるように言う。
「国に何でもしてくれなんてお願いするつもりはないんですよ。せめて、移動用のバスだけでも用意してもらえないんですかね。なぜ無理なんでしょうか。そんな難しいことですか? 自分で逃げろといったって、ガソリンがなければできるはずがない。被災地に燃料がないなんて、日本人全員がわかってることじゃないですか」
そもそもが根拠のあいまいな「30キロ」という国指定のあいまいなゾーン。そして、そこからも漏れた"グレーゾーン"で、不安におののきながら選択を迫られている住民たち。彼らの肉体的、精神的ストレスは限界にきている。追い詰められた住民の声に、国はいつ真剣に耳を傾けてくれるのだろうか。
(文=浮島さとし)
人の気配が消えた県道「豊間―四倉線」。地元の建設業者がガラを道の両脇に寄せてようやく通れるようになったが......。
東日本大震災の発生から早くも2週間が経過した。東京電力福島第一原発は、いまだ予断を許さない状態が続いている。原発施設から半径20キロ圏の地域に「避難勧告」、20キロから30キロ圏に「屋内退避指示」が出されていることは周知の通りだ。
一方、原発施設からおよそ35キロ前後に位置する福島県いわき市四倉(よつくら)町は、今回の大地震とそれに伴う津波で甚大な被害を受けた地区のひとつ。国から避難勧告や屋内退避指示は出ていないものの、一部の住民は放射能汚染を恐れて"自主的に"県外へ脱出。残された多くの住民は、自宅や避難所で"自主的な"屋内退避に務めているのが実情だ。町の多くのエリアはひっそりと静まり返り、商店や住宅があったはずの県道382号線を車で走ると、人の気配はほとんど感じられないという状態である。
そんな状況下にありながら、乾物屋を営む鈴木式子(すねこ)さん(80歳)は、今日も「営業中」の紙を店頭に貼りだし、野菜や干物などを細々と売り続けている。11日の地震発生時は、いつものようにこの店で営業をしている最中だったという。
「揺れたねぇ、びっくりしたよ。ただ、ここらは津波がそれほどじゃなかったのでよかったんだ。腰くらいまで水が襲ってきたけど、そこの金網(店の前にある幅5mほどの金属製フェンス)につかまって助かったんだ。これがなかったら終わりだったな(笑)」
かろうじて流されずに残った商品を売り始めたのは、地震発生から3日ほどたってからだという。
今年80歳になる式子さん。被災したとは思えないほどの明るい笑顔が印象的。お話を伺っている最中も震度5の余震があった。「逃げる場所なんてないし、これからも四倉に住み続けるよ。今ある商品だけでも売っていれば、少しは日銭も入るしね」
そう明るく語る式子さんだが、地震直後はカップラーメンや菓子パンを求めて客が押しかけたものの、保存の効く「非常食類」が売切れた後は客足はほぼ途絶えた。福島県産の一部の野菜から暫定規制値を超える放射性物質が検出された事実も逆風になった。訪れる観光客が間違いなくゼロという現状で、地元民が買いに来なければ商売にはならない。この日、トマトとじゃがいも、干物を購入した我々に対し、「今日の客はあんた(筆者)とあんた(カメラマン)で3人目だ」と式子さんは笑った。
また、運送業者らが「汚染地区」のレッテルを貼られたいわき市に来たがらないとの情報もあり、物資が市下全域に十分に入ってこない状況が続いている。必然的に式子さんの店でも仕入れが全くできていない状態だという。商品が売れても売れなくても、商売をいつまで続けられるかは不透明だ。
「津波はもう来ないよ、大丈夫だ」と話していた式子さんだが、「放射能は心配じゃないのですか」との問いには、数秒の沈黙の後に「私らは最後までここにいるよ」と静かに答えた。
一方、息子の久幸さん(53歳)も、津波の発生時は式子さんと共にフェンスにしがみついて難を逃れた一人。30キロ圏から外れる四倉地区を「グレーゾーンだ」と表現し、おっとりした口調ながら、見通しの立たない今後への不安と苛立ちを隠そうとしない。
手書きの「営業中」の紙を貼り出し、わずかに残された野菜や乾物を今日も売る。取材に対して一気に思いのたけを吐き出した。「20キロは逃げろ、30キロは自宅にいろって、じゃ、31キロの人間はどうすればいいのかという話ですよね。逃げるも居続けるも自分で勝手に決めろと言われてるわけでしょう。そんなこといっても、情報もないしどうしていいかわからない。政府が責任をもって、『こういう理由でこれだけ危険、だから逃げなさい、その負担は国や県が持つ』とはっきり言ってくれないと、住民は財産もなくして逃げる力もない。そもそもガソリンが全然ないんですから」
そう不安げに語る久幸さんの本業は漆職人だ。実は、福島第一原発から10キロ圏内にある神社から昨年メンテナンスを依頼され、漆や金箔の張替え工事を終えたばかり。リフォームを終えた神社の鳥居や建物が、地震の被害でどんな状態になってしまっているか、「気がかりでしょうがない」と顔を曇らせた。
おりしも枝野幸男官房長官は25日の会見で、「屋内退避」が出ている30キロ圏の住民について、「物流などで停滞が生じ、社会生活の維持継続が困難になりつつある」との認識を示しながら、「自主的に退避をしてもらうことが望ましい」とコメント。ことここに至っても、国は被災者に<自己責任で努力せよ>との方針を貫くようだ。30キロ圏外については推して知るべしである。
通りかかった四倉地区に住む別の男性が、吐き捨てるように言う。
「国に何でもしてくれなんてお願いするつもりはないんですよ。せめて、移動用のバスだけでも用意してもらえないんですかね。なぜ無理なんでしょうか。そんな難しいことですか? 自分で逃げろといったって、ガソリンがなければできるはずがない。被災地に燃料がないなんて、日本人全員がわかってることじゃないですか」
そもそもが根拠のあいまいな「30キロ」という国指定のあいまいなゾーン。そして、そこからも漏れた"グレーゾーン"で、不安におののきながら選択を迫られている住民たち。彼らの肉体的、精神的ストレスは限界にきている。追い詰められた住民の声に、国はいつ真剣に耳を傾けてくれるのだろうか。
(文=浮島さとし)
ラベル: 日常
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