2009年1月8日木曜日

みのたけの春


わたしは志水辰夫の読者としては随分さぼってきた。
ほとんど読んでいないといってもいいかもしれない。

落語と同じように本を読むにあたっても読者の質は問われる。
わたしが、志水辰夫から離れていたのは私の力足らずのせいだったのかもしれない、この本を読んでそう思った。

この本で扱われているのは維新のころ、主人公は榊原清吉、北但馬の郷士である。
郷士とはいっても実情は百姓、さらに具体的に言えば養蚕業を主に行っている百姓である。
この男に一人の病弱な母親がいる。
これがこの小説の骨格で、その骨格にもろもろの人間が絡んでくる。
その絡み方のなかには維新の時代特有のねっちこさが見え隠れする。

本人たちがそれを意識しているのかどうかは別にして、彼らはその時代に翻弄されていく。
これはいつの時代でも同じことだ。

大きな事件は起こらない。
そういう日常の中で、時代と自分と家族と師と師のお嬢さんと友人と友人の家族たちを清吉は眺め考えて生きていく。

大きな事件は起こらないが、清吉をはじめそれぞれの人にとっての大きな事件は起こる。

この物語は、司馬遼太郎の視点を持っては書けない。
いやいや、司馬氏を批判する気は毛頭ない。
ただ、司馬氏の書く歴史に隠された人々を映し出してくれるこの物語に人というのはこのように生きていくのだったなあと感慨を呼び起こされたのだ。

大儀を中心に生きる人もいれば、親を思うことを人生の真ん中に据えて生きる人もいる。
そういうもろもろの人々の総称を持って歴史と呼びたいが、実は歴史はそのようには記述されない。
歴史は常にその後に書かれるもので、そういう意味では物語である。
その物語は多くの場合、大きな歴史の流れにかかわらなかった人々を個々に描写することはない。

この本に接して、歴史によって取り残された人々の姿のなかに始めて人間を見るような気がしたのは、おそらく私が読み手として変化したせいであろう。
それが見巧者になったかどうかは別問題だが、この小説をしっくりと腹に納められるようになったことを今は素直に喜びたく思う。

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