2011年2月4日金曜日

会話のキャッチボール

その内容に意味があろうとなかろうと、会話を交える人がいることは幸せなことです。

それは、自分の存在そのもののようなものだからです。
人は、自分自身を直接見ることが出来ませんから、自分を知るためにときどき他者を必要とします。

これは、鏡が必要になることがあると言っているのですね。

で、この鏡、良質であるに越したことはないのですが、この良質が厄介で、わたしの敬愛する人は以下のようなことをわたしに投げかけたことがあります。

一緒に同じテーブルでお茶を飲みながら、ゆったりとした気分で言葉が行き来しなかったとしたら、それは家族とは言えないのではないか。

この場合、「ゆったりとした気分」が大事で「言葉の行き来」は二の次です。
けれども、「ゆったりした気分」を自分の中に浸透させていく「言葉の行き来」があって、(変な人とでは無理ですよ)、その会話のキャッチボールは時として、自分を救ってくれたりもするものです。

意味のある論議も必要でしょうが、言ってもいわなくてもいいような会話を充足された気分で交わしているということは、とんでもなく幸せなことなんですよ。

大事にしなさいね、そんな人を。
めったに会えるものじゃありませんから。

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