原寸大の地図
「原寸大の地図」という話があります。
(別にボルヘスのあの小説のことを話そうとしているのではないのです。)
地図とはある世界をあるいはその一部を縮小して表現したもので、原寸大だと正確ではあっても持ち歩けないしあまり役に立たないというお話です。
逆説的に書けば、地図とは不正確であることをもってわれわれの役に立つわけです。
不正確とはこの場合、縮尺することで見えないものが出てくることを言っています。
たとえば五万分の一の地図にあなたのおうちは載っていませんものね。
現実にはそこにあなたが住んでいてさっき庭先の花に水をやっていたとしても五万分の一の地図にそれらはありません。
地図は現実世界の写し絵ではなく、たとえばどこかにたどり着くのに必要なものだけを抽象し、あとのものは捨象していくところがあります。
その場合、大事なひとつの山を捨象するのはとても困るのですが、地図を作る際の縮尺には山を消滅させる力はないのでそれは心配ありません。
地図製作法はしっかりしており、現実と地図の間はなかなか堅固に結びついているのです。
社会科学のモデルにも地図によく似たところがありますが、これは危ういことがあります。
文部科学省の高校歴史教科書検定で沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の日本軍強制の記述が削除・修正された問題で、29日午後3時から宜野湾市の宜野湾海浜公園で開催された「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(同実行委員会主催)には11万人が参加、宮古、八重山の郡民大会も含めると、県内外から11万6千人(主催者発表)が結集した。
歴史もまた地図のごとく原寸大のものを求めることはできません。
われわれは別様に縮尺された歴史という地図を何枚か持っているにすぎません。
今回のこの事件はそのなかの一枚の地図、「日本軍は正しかった地図」の話ですが、その地図を完成させるには、ひとつの山(=日本軍強制)を消し去る必要がありました。
しかし、その山は消し去るにはあまりにも大きすぎる山ではないかというのが今回の結集です。
もともと「日本軍は正しかった地図」自体、それほど必要なものでもないのですから。
わたしも日本はひどい地図を作ろうとしていると思いますし、このムーブメントを全面的に支持します。
ただすこし気になっていることもあります。
時としてこのムーブメントのなかに「真実の歴史」という言葉を聞くときです。
「真実の歴史」は「原寸大の地図」のようなもので、ともに存在させるに難しく、有効性にも無理があります。
さらに、真実の歴史をもつことは真実の地図をもつことよりもずっと大変かもしれません。
ごくごく限られた場所なら、その場所のそこらじゅうを歩きまわることで、われわれはそのごくごく限られた場所での原寸大の地図をほぼ手に入れることができるでしょうが、そのように歴史のなかを歩き回ることは至難だからです。
一方、「ほんとうのことを知りたい」は、よく考えられた言葉でとても限定的な物言いになっています。
そこが「真実の歴史を知りたい」とは違っています。
沖縄の今回のこの運動には限られた集団自決の周りをいやというほど見てきた人がいます。
それをある高校生は「わたしたちのおじいやおばあが……」と集会で話していました。
あれは限られたほんとうのことを強調しています。
その限られたほんとうのことをわたしは「山」と言いました。
その山をその足で歩き回り、その目で確かめ、その手で触った人がいるのに、
なかったことにしようという無神経で酷薄な暴挙。
確かな場所から発信する11万6千人の民衆の力はとても誇らしいものでした。
わたしもあんなふうに輝いてみたく思います。
ラベル: 社会
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