2010年3月5日金曜日

文章の切れ味

ひとは、一時期文章の切れ味に憧れることもあるだろうが、切れ味など児戯に似ている。

「児戯」という言葉は語弊があって、このように使うものではないように思うが、一般に使われているのだから分別なく書いてしまった。(浅薄ナリ)
実際は、技量もない者が技量の成果と見まちがっている技術を「児戯」と示したかったのだ。

切れ味を出すことは意外と簡単に出せるが、問題はその先にある。
切れ味が出たところで、その先に何の内容もなければ…So what ? と相成る。
事実その種の文章は多い。

向田邦子あたりは、切れ味を持ちながらある種の滋味を持ち合わせていた。
ぱっと出て、すぐに天才 ―― とかいうフレーズは正解で彼女の文章は早々真似できない。
そう言えば、向田さんのエッセイは飛び飛びの三つの挿話が最後に一挙に吹き寄せられるというスタイルをよく取っていた。
その吹き寄せの構成に才能が見えた。

ときに須賀さんはその才能をも見せない。
十分すぎる文章への思いと修行の結果備わったものをひたすら表立った文章からは消し去った。
こういう作家はあまりいない。

無理に思えば、幸田文がいるだろうか。
男は総じてこの手の文章が苦手だ。
吉田健一は一つの対極だろうか。

なに、単なる趣味を述べているのだ。

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