容疑者Xへの献身
これがなかなかいい作品に仕上がっていた。
おそらく受信者のわたしが原作をしっかり読んでいたことに負うところもあったのだろう。
原作に支えられての佳品。
そういった印象を持った。(ほめすぎかな)
そういう映画に思えた。
そんな感想を胸のうちで転がしていると橋本忍を思い出してしまった。
橋本忍があるとき原作と映画の関係をインタビューで質問されて答える。
オリジナル脚本ばかり書いていた橋本に対して師匠の伊丹万作に「きみは原作ものはやらないのか?」と聞かれたときの返答である。
「ぼくはやったことないけど、やるんだったらこんなふうにやりたいです」
正確には引用しません。
それは、こんな感じの答えだった。
ぼくは原作の姿形なんてまったくいらない。
ほしいのは原作の生き血(なんなんでしょうね。含蓄ありますね。)です。だから一度読んだ原作は二度と読みません。
脚本を書くときも読み返しません。(資料として調べてはいるのだろう)
小説と脚本はそもそも全然違うんだから、こだわっても意味はない。
脚本を書くときに原作を読み返さないといけないときは、失敗作です。
伊丹万作はその答えに「きみの言うとおりかもしれない」と納得しながら付け加えた。
けれども世の中には原作と心中しなければいけないものもあるよ。
橋本は心中しなければならない原作には出会わなかったと後に語っている。
そんな彼の原作ものの代表作は「砂の器」である。
小説と野村芳太郎のあの映画と比べてみればその志の高さに打たれる。
松本清張もまた自分の作品で映画化されたもののなかで一番よかった映画は「砂の器」だと語っている。
清張もなかなかわかっていたのです。
転じて「容疑者Xへの献身」。
わかっていますよ。
そういう比較はあまり大きな意味はありませんね。
映画「容疑者Xへの献身」は映画という表現媒体で小説になかった細やかな部分を表現していましたね。
もちろん小説にあったものが抜け落ちてもいました。
それは小説と映画との表現媒体の違いです。
それを追いかけるように福田靖に橋本忍をねだってもねえ。
いま脚本に注目している人はどれくらいいるのであろう。
山田太一、倉本聡、向田邦子というテレビの世界ではなく、映画の脚本の話なのだけれど…
ラベル: 映画
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