2007年8月7日火曜日

尹東柱

尹東柱について、少しだけ記しておきたい。
これは、わたしの心覚えだと思ってもらっていい。

このブログに書かれるもろもろのことはそういうふうにわたしに対しての心覚えとして書かれることが多いのだが、
そのいくつかが誰かに対するメッセージにもなっているとしたらうれしいことです。


尹東柱の生涯
1917年満州に生まれる。
満州開拓民の子孫であった。
抗日運動の拠点北間島で少年時代を過ごしす。
龍井の恩真中学、平壌の崇実中学校に学ぶ。
1936年頃より童詩を雑誌に発表し始める。
1938年ソウルの延禧専門学校(現代の延世大学校)文科に入学する。
在学中に、朝鮮語授業の廃止、創氏改名(彼も平沼東柱と改名)を体験。
この学校卒業時に自選詩集『空と風と星と詩』の出版を考慮するが、恩師とも相談の上、内容的に出版は難しいとの判断から出版を断念。
この断念は、誰が強要したか?
1942年日本に渡り、立教大学英文科選科に入学する。
その9月、京都に移り、10月同志社大学英文科選科に入学。
1943年、7月同志社大学在学中に治安維持法違反で京都下鴨警察署に逮捕され、朝鮮解放を半年後に控えた1945年2月16日 旧福岡刑務所で獄死した(一説には毒殺説もあるが真相は明らかではない)。

尹東柱について、茨木のり子に随想がある。
あるいは、随想と読んではいけないものかもしれない。
 ソウルの本屋の詩集コーナーの熱気は凄いと、かつて書いたことがあるのだが、見たことのない人は半信半疑で「本当なんですか?」と言う。
 二年ほど前、ソウルの本屋で詩集を探していた時、隅っこのほうで、中学生らしい女の子三人がかたまって一冊の詩集を澄んだ声で朗読し、他の二人はせっせと音を頼りにそれを書き写していた。
 「誰の詩集?」と韓国語で声をかけてみたかったが、ドキッとさせるのがかわいそうで、思いとどまった。
 書店は大目に見ているらしいのだが、詩集を買わずに書き写すのは、幾分うしろめたい行為であるらしく、隅っこのほうだったり、しゃがんだりしている。
しばしばこういう光景に出会う。
 中学生や高校生のお小遣いでは、一冊の詩集はかなり高価なものにつくのだろうか。
そのかたわらをそっとすり抜け、ふりかえった時、詩集の背表紙の写真が目に飛び込んできた。

 「ああ、尹東柱!」

 尋ねたりしなくてよかった。
 中学生に見えたが、あるいは高校生だったかもしれない。
 いずれにしても、こんな若い少女たちに愛され、抱きとられている尹東柱という詩人のことが、改めてじんと胸にきた。忘れられない記憶である。
 韓国の新聞では、何年かおきに、読者による詩人の好選度(好感度)というのが載る。
 二度見たが、二度とも第一位は尹東柱で、他の詩人は乱高下がはなはだしい。
 これからもきっとそうだろう。
 詩人の名前を見ると、老若男女、無作為にアンケートをとっているのがわから、公正なランキングをめざしているようなのだ。     
学校でも教えるし、たぶん韓国で尹東柱の名前を知らない人はないだろう。
 もはや、受難のシンボル、純潔のシンボルともなっているようだ。 
 けれど、日本ではあまりにも知られていない。
 日本へ留学中、独立運動の嫌疑で逮捕され、福岡刑務所で獄死させられた人であるというのに。
  『ハングルへの旅』(朝日新聞社、一九八六年)という本を出した時、尹東柱に触れた一章を書いたのも、こういう詩人が韓国にいたことを、少しは知ってほしいとい願ってのことだった。
 それが筑摩書房の野上龍彦氏が払った努力は並たいていのものではなかった。
 粘り勝ちに見えたが、このことはむしろ韓国で大きな反響を呼び、いくつかの新聞が取りあげた。
 〈日本もようやくにして尹東柱を認めたか……〉という長嘆息を聞くおもいだった。

 はからずも、ここにも野上氏の軌跡を見る。

 彼女の随想は続く。

 一九九〇年、尹東柱の甥にあたる、尹仁石(ユン・インソク)さんに東京でお目にかかる機会があった。
 〈弟の印象画〉という詩に出てくる弟は、尹一柱氏で、その子息が仁石氏だった。
 〈弟の印象画〉は素朴だけれど惹かれるものがある。
 あかい額というのは陽にやけた赤銅色であるだろう。
 この詩の書かれたのが一九三八年であったことを思うと、 「大きくなったらなんになる?」という兄の問いに「人になるの」と無邪気に答えた弟に、今の状態では人間にすらなれまいという暗然たる亡国の憂いがきざして、まじまじと顔をみつめるさまが伝わってくる。
 時移り、一柱氏はりっぱな〈人〉に成っても、兄の仕事を跡づけ、今見るような形にしてくれた人で、ゴッホにおける弟テオのような役目を果した。
 たった一度お目にかかったきりで、一九八五年に逝ってしまわれたが、その印象はきわめて鮮かで、私の視た、最高の韓国人の一人に入る。
 子息の仁石氏は、留学生として日本に来ていて、現在はソウルへ帰国し、成均館大学・建築工学科の助教授になられた。 
 中村屋でライスカレーを食べながら話したのだが、その折、きれいな日本語で、 「(容姿が)ぼくは父にはまさると思っていますが、伯父(尹東柱)には負けます」 と、いたずらっぽく笑った。
 静かだけれど闊達で、魅力的な若者だった。
 そしてまた、 「伯父は死んで、生きた人だ――とおもいます」 とも言われた。
 私も深く共感するところだった。人間のなかには、稀にだが、死んでのちに、煌めくような生を獲得する人がいる。
 尹東柱もそういう人だった。
 だが、彼をかくも無惨に死なしめた日本人の一人としては、かすかに頷くしかなかったのである。

 わたしにこれららのことを教えるきっかけになったのは、野上龍彦氏であった。
 しかし、多くの人は、その日、彼の存在を意識することなく、その飲み会を去った。
 そのうちにひとりは、自分にかつ目せよとわめいた。
 だれが、かつ目するものか。
 
 あなたは、そうやって尹東柱さえ知らずに死んでいくのだ。

 おろかしさと気高さが、猥雑な飲み屋の空間に雑居していてそのわずかな隙を突いて、わたしは見た。

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