2007年10月29日月曜日

JR病院での出会い


「喜びは悲しみのあとに」(上原隆著)は、わたしが玄冬社アウトロー文庫として2,3年前に買っていて、その当時、なかなかやねえと思いながら通読した作品だが、その日、つまりJR病院で大腸ポリープを摘出したその日、10月12日に読んだ「喜びは悲しみのあとに」はさらによかった。

毎日のように会っている人が違って見えるときがある。(そんなことはないのかな?)
人の場合は会っているその人自身も日々変わっているし(あなたは、変わっていないのかな?)、見ている側も変わっているのでさらにややこしい話になるが、今話しているのは本の話だから少しはわかりやすい。

本の場合は、前に読んでふとそこに置いたまま、いまも疑うこともなくそこにある。
そんな人がいると助かるのだが…、あのときのままいつまでもそこにいてくれる人。
なにか叱られそうなフレーズだな。

置いたままの場所にある本をもう一度手にとって読んだとき、その本の印象が変わっていたとしたら、それは自分の何かが変化してきているに違いなく、その意味でその本を通して変わってしまった自分に出会ったということなのだろう。
JR病院で会ったのは、上原隆であり、あのときの(10/12時点での)わたしなのだろう。

自分で書いて読んでいて(書くという作業には読むという作業が微妙に含まれていて、わたしもこのブログの読者なのです。だから、しょうもねえな、とよく思ったりもするのです。)妙に納得してしまいましたが、このお話は何も終わっていないので少しだけ続けることにします。

この本の良さは「あとがき」にある上原氏の言、この本をなにを思って書いたかに集約される。
以下に引用する。

「私が考えていきたいテーマがハッキリと見えてきた。言葉にするとこうなる。
『つらいことや悲しいことがあり、自分を道端にころがっている小石のように感じる時、人は自分をどのように支えるのか?』…」

この本が美しいのはその支えた瞬間をすくい取っているからである。
支えた瞬間の描写は多くはしぐさや表情による。

少なくとも薄っぺらな観念で支えた瞬間を描写しているのではない。
(上の一文は、昨今の死に落ちの作品のことを揶揄している。
<=主人公の死に向かって物語が単調に進行していくあの作品群。
そこには作者の安直な何の吟味もされない観念だけがうずまいている。
そしてワイドショーで飼いならされてきた読者や観客はそれに接し、涙する。
しかしながら、その涙はけっして読者である、あるいは観客であるあなた本人が流したものではない。
なぜなら、その本を閉じたとき、あるいは映画を見終わって明るい外へ出たとき、そこにあるべき痛みがあなたの心にも身体にも、ましてやあなたの骨のどこをさがしても、ほんのひとかけらも残っていないからだ。
当事者性をもって流された涙は、あるいは引き受けられた感動はある種の痛みを持つ。
そのことが細い糸ではあるが感動への身体による確認だ。>)

作者の目線がとらえることのできたしぐさや表情を文章にするという作業は、われわれに見えなかったものを提示してくれる。

そこに見えないものを存在しないと断言するような愚はしないでほしい。

この作品はある痛み(=「つらいことや悲しいこと(それはもちろんひとによって大きく違うのですが)」)を描くだけに終始するのではなく、その支える姿を描くことで作品として、その人の人生として結晶させるという新たな手法で、われわれの知らなかった他者の生きる物語の世界を教えてくれる。

稀有な作品といっていいと思う。

ただ、「つらいことや悲しいことがあり、自分を道端にころがっている小石のように感じ」たことのない人が読んで興味深いかどうかはわからない。

おそらく何の興趣もわかないのではないだろうか。

人が作品を選ぶように作品もまた人を選ぶのである。

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