2007年10月17日水曜日

一瞬の風になれ



「一瞬の風になれ」は吉川英治新人賞と本屋大賞を受賞しているので読まれた方も多いのではないだろうか。
残念ながら第136回直木賞は逃した。
選考委員の眼だ。
仕方あるまい。
ここに選考委員の評がある。

井上ひさし 「美点の多い作品である。また、走ることを書き切るために疾走感のある軽やかな文体を採用      したところにも感心したが、物語の展開があまりにも定石通りだった。」「やや鈍重な、お約      束の結末になってしまったのは残念である。」

林真理子  サークル(引用者注:自分のセンスに合った読者だけ得ればいいという志)のしっぽをくっつ      けているような気がして仕方がない。」

渡辺淳一  「優しく爽やかで軽すぎる。」「作家が異性を書くときは、その異性の感性から生理まで書け      る自信がなくして、簡単に挑むべきではない。」

平岩弓枝  「のびのびと書いていて明るく読みやすい。スポーツを背景におくと人間が描きやすいという      利点を上手く使っている」「友情の裏にある闘争心をもっとむき出しに書いてもらいたかっ       た。」

阿刀田高  爽快なスポーツ小説にはなっているが、――もう少しドロドロしているんじゃないのかなあ       ――人間のリアリティーを感じにくかった。」


北方謙三  「丁寧に、よく書かれていると思う。しかし、汗の臭いがたちのぼってこない。」「挫折や苦      悩や嫉妬や屈辱という、マイナスの情念が、実は小説ではプラスになり得るものかもしれな       い、という発想が排除されているという気がする。爽やかさに、手放しで拍手を送れない、と      私は感じ続けていた。」

なるほど選考委員はコンクな作品がお好きらしい。
ちなみに第137回直木賞受賞作は「吉原手引草」だが、その評を読んでみるとほぼ全員が絶賛している。
それはそうだろう。
松井さんのあの作品はコンクそのものだ。

さて、以下ここでわたしは「一瞬の風になれ」をほめようと思っている。

社会科学に「合成の誤謬」という考え方がある。
この話から始めたい。

「その人にとっては合理的な行動なのだが、多くの人がそれと同じような行動をとることによって、社会全体にとって不都合な結果が生じること。」

社会科学にとっては、ちと頼りない定義だが、ここでわたしが語るなかでの「合成の誤謬」はこの程度の意味で理解してもらえれば十分だと思う。

これをさらに下世話な話にしてしまう。
小さくはあなたと彼女、あるいはあなたと彼のことを考えてもらえばいいだろう。
わたしがこんなに努力しているのにあなたはなんなの、なにを考えているのといった類のことだ。
しかし、ことはあなたの思っているようなことではないのだ。
あなたが努力しているように相手もまた努力している、にもかかわらず二人の関係はまずくなっていく、そういう話なのだ。

家族に置き換えて考えてもいい。
オレがこんなに家族のためを思って働いているのにおまえらは(ここでは家族のほかのメンバーのことを言っている)なにを考えているのだ。
案ずることはない。
彼らもまた家族のことを思い、生きているのだ。
それでも家族自体は冷え冷えとしたものになっていく、そういう話をしているのだ。

そういうことが生じる。
「合成の誤謬」を知らなければ、ややもすれば相手をなじりたくなることもあるだろうが、彼らもまたあなたと同じように一生懸命生きていたとしても、結果ますますうまくいかなくなるということはあるのだ。

「一瞬の風になれ」はすぐれてこの「合成の誤謬」をいかに乗り越えるかを書いた作品である。
おそらく作者である佐藤多佳子にその意図はなかっただろう。
若者たちを主人公にしたビルドゥングスロマンを書こうとしたのではなかったろうか。
もちろんその視点で見てもこの作品は上出来であろう。

「神奈川県立春野台高校陸上部」

これが、「一瞬の風になれ」の舞台だ。
つまり、この陸上部が彼らの限定された社会である。
そこに描かれる陸上という競技のあり様は興味深い。
走るということを始めて読者は知らされる。
作者の取材の周到さだ。
このリアリティが「合成の誤謬」へ立ち向かう彼らを映し出していく。

「一瞬の風になれ」は三冊の構成になっている。
1 イチニツイテ
2 ヨウイ
3 ドン
となっているが、うまいもんでしょ、このタイトル。
佐藤多佳子はセンスがいいのだ。

この「3 ドン」の「第4章 アンダーハンド・パス」が「合成の誤謬」に立ち向かう彼らの姿を書いてとくに美しい。
それぞれがそれぞれに努力しても離れていく夢を彼らはどのように近づけようというのか。
佐藤多佳子は陸上という競技の中で「4継(100m×4 リレー)」を特化させる。
特化させたとき、彼女の頭に「合成の誤謬」の超克はなかっただろう。
先にも書いたようにおそらくは青春の成長過程を書くのに必要な設定だったのだろう。
それが予期せぬものも引き寄せた。
ひたむきさが時たま起こす仕合せである。

人には人の心がわからない。
おそらくそのふたりの間には言葉の入りこむスキもないだろう。
思いつきの言葉ならなおさらだ。
だとしたら人は心をこめる人にどうして相対したらいいのだろう。

寄り添うことだけなのだろうと私は思っている。
寄り添い、寄り添い続ける、そのことだけが残された道ではないかと思っている。

だからさ、寄り添ってくれる人をあなたには大切にしてほしい。
あなたには大切な人に寄り添っていてほしい。

「人間」と「人間関係」は似たように見えるかもしれないがとても遠い存在だ。
相手のことがどれほどわかり、自分のことがどれほどわかったとしても、二人の関係が見えるかどうかはそんなところにはない。
関係を支えているものはあなたの手にも相手の手にもない。
では、どこにあるのか。
以下はせつなく長い話になるが、このことはあらためて作品にするためここではこれ以上言及しません。
申しわけないです。

「一瞬の風になれ」はたくまずして人間関係を描いた作品になってしまった。
選考委員は言う。
「人間が描かれていない。」
「女性への理解が足りない。」
それはそうだろう。
この作品は、結果として人間を描いた面に誇るべき美点は薄いのだから。

選考委員の評を読んで思う。
彼らは人間と人間関係がまったく違ったものだという基本的なことを理解していたのだろうか。
理解していたとして、この作品をあのように評価したのだろうか。


※今回のブログは一度書き上げたときに事故で一切が消えてしまったものです。
その落胆のなかで書き直したものなので随所にその気落ちが見えます。
あらためて少しずつ書き直し、当所のものに近づけていきたく思っています。

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