2007年11月7日水曜日

自己否定の回路


「自己否定の回路を身のうちにもつ」と書くことがあるが、このことをずいぶん大事なものだと考えている。
ただ、そういった自己否定の回路は放っておくと暴れだし、桂枝雀のようなことになってしまう。
あるいは佐藤真のようなことになる。
半分病気のようなもので、いや病気そのもののようなところがあって、ああいう危険なものは持たないほうがよいという判断もされるだろう。
しかし「自己否定の回路」がないとどうしてもその人の表現や生き方がうわすべりなものになってしまうので、このあたりの加減は難しい。
この「自己否定の回路」はいずれ作品としなければならないが、はたして請け負ってくれる出版社はあるか。

ところで、「昭和落語家伝」という本を立川談志が出した。
この家元は落語以上に演芸ファンとして演芸について話させるときに力を発揮したりする。
彼のなかの論理がうまい具合にかみ合うのだ。
ついでに言っておけば、彼の落語が不評なのは(なかには嫌いな人がいるということです)、その論理が話に入ってくるからです。

もちろん論理、理屈がそのまま入ってくるのじゃないよ。
「芝浜」はこうだろう。
「粗忽長屋」っていうのはこういうふうに解釈しなけりゃいけない、といったことだ。

まあ、それはそれで興味深い話、いい芸として仕上がるのだが、亡き志ん朝が「落語の何が好き?」の問に「たぬきやきつねの出てくるところ」と応えたのにはかなわない。
心地よくなりたいなら一も二もなく志ん朝、それで決まり。
あれだけ様子がいいんだもんな。

そういう志ん朝をえらく評価したひとりが、小林信彦。
で、その小林、どこかで談志の悪口を書いている。
談志が自分は名人だなんていってるもんだから、あんな奴が名人なもんかなんてね。
そのあたりはやっかいで、確かに談志自身、自分がうまいと思っているが、それほど慢心して名人だなんて言ってはいない。
あの男の中にもえげつない自己否定の回路があってね、ああ言わざるを得ないのだ。
そこへいくと自己否定の回路も志ん朝になると違う。
ちくま文庫の六巻本なんかに見るあの志ん朝のノート、あれが彼の自己否定の回路のなせるわざだとわたしは見ている。

ところで、談志がえらく可愛がる太田光にも自己否定の回路はある。
この二人が土曜の深夜11時半にTBSラジオでやっている番組。
あほらしいやら、いじましいやら、可愛いやら。
安心するんだろうな、同じ自己否定の回路をもつ姿を相手に見て。
いい番組かもしれない。

ついでに書いておけば、いらぬことだけど。
話していてその人の痛みを感じさせないような奴っているだろ。
そんな奴と話すことなんかないぜ。
こっちがいやな気分を背負い込むだけだからさ。
まあ、はぐれ物のオレが言っても仕方のないことだけどさ。

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