春風亭柳好
不眠状態がずいぶん長く続いているのだが、悩むほどではない。
確かに眠れないのだが、眠れなければ何か作業をしていればいいわけで、その意味
ではなんら支障はきたさない。
不眠が始末に悪いのは、明朝に予定が否応なく入っているサラリーマンや何かの場合で、こういった人たちの不眠症は目も当てられないケースとなることがある。
そこへいくと半分引きこもりのようなわたしは、眠れようが眠れまいが、ただここに居さえすればいいだけだから、不眠症に対して病気とも思えぬところがある。
ただおかしなもので、そういうわたしにももうそろそろ眠りたいなという思いが湧くときがあって、それは叶うあてのない希望のようなものなのかもしれないが、そういうときには自分が不眠症であることを自覚することになる。
でそのときは、眠れないことが苦痛になり、レンドルミンを酒といっしょに流し込むことになる。
(睡眠薬はアルコールと併用してはなりませぬ。
異常に効いてしまうことがありますから。
だけど一錠で死ぬなんてうまい話もないのです。)
そうしておいて、落語をかけるわけです。
ここ三ヶ月ほどは、このときにかける落語は決まっている。
三代目柳好だ。
何、三代目と断ることもなく、柳好と言えば三代目柳好に決まっている。
あの、『野ざらし』の柳好、『ガマ』の柳好である。
というわけで、そういう夜は、出囃子『梅は咲いたか』を聞きながら眠る体勢に入る。
柳好師匠はわたしが生まれた翌年には上の鈴本の楽屋で倒れてそのままあちらにお行きになった。
だからわたしは師匠の落語を生で見ていない。
それでも音だけで大丈夫なのは柳好の落語が歌だからである。
仲間内では「唄い調子」と言うのは、彼の流麗な口調のことを言っているのだが、ここは歌と言い切っておいたほうがわかりやすいだろう。
この「唄い調子」が眠るのに心地よい。
ゆめゆめ柳好の人情話など期待なさるな。
もっとも利口な本人はそのことを知っていて、人情話に近づいたためしがない。
そこへいくとなくなった志ん朝は恐れを知らずに「お直し」なんていうとんでもない話にも挑戦していたっけ。
(志ん朝もまた歌のうまい落語家であった。
歌のうまさでこの二人を並べてみたら面白いと思う。
いいテーマだと思うね。
志らくが少し書いているが、誰か本気で取り組んでみないかねえ。
『唄い調子 ―― 落語は歌になりうるか、歌は落語になりうるか』
こんな感じでどうだろう。)
飛んでしまった。
先の志ん朝の「お直し」の話だ、これがまたいい出来でねえ、
けど、いけねえ、親父の絶品の「お直し」があって、これを聞くと志ん朝のがどうしようもなく思える。
芸の怖さだね。
並べるとかすむんだよ。
確か志ん生はあれで(=「お直し」)なんか賞を取ったね。
女郎買いの話でこんな賞をもらってなんていう枕を聞いた覚えがある。
話はこんがらがって、変な方向に行ったが、要は眠りたいときにわたしはレンドルミンと柳好を必要としている話。
それから、いっ平(=今度「三平」を継ぐ素人芸人ね)が柳好を語るのに「フラ」を使って説明しようとしていたが、とんでもない。
柳好は「唄い調子」。
ここ一本に攻めて論じなければ、ほんの少しも柳好師匠は浮かんでこない。
しょうがねえな、素人は。
というわけで――
よっ、柳好、「野ざらし」を!
ラベル: 演芸
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