東京ワッショイ
何かをきっかけとして不意に思い出してしまうことがある。
わたしは将棋のことをたまに書くことがあるが、じつはわたしの息子は奨励会1級である。
息子といってももうすでに関係はない。
何かをきっかけとして離れてしまった。
その青年のことを思うとき、もっとわがままにあの青年を愛していればよかったと悔しい思いをする。
詳しくは説明しないが、奨励会はとても厳しい世界で、半年に二人だけがプロになっていく。
天才と呼ばれた子どもたちが、全国から集まって、競い合う世界だ。
しかし、その天才も天才のままでい続けることはできない。
自分の才能というものにすぐにぶち当たってしまうからだ。
「才能」とは何か。
おそらく多くの人はそれに出会うことはないだろう。
圧倒的な努力の先にほのかに見える薄明かりがあるとすれば、それが才能だ。
圧倒的な努力を才能は欲するが、いくら努力をしても薄明かりにたどり着かない者もいる。
多くの人はそれほど努力はしない。
だから才能など見えはしないのだ。
そのくせ、「才能」という言葉を発するが、ほんとうのことを言えば「才能」などほとんどこの世にはないのだ。
事実、将棋界でさえ自分自身の中に才能を感じた人間はほぼいない。
升田幸三か大山康晴か…いまなら羽生善治がそれを感じているかどうか、おそらく感じてはいないのだろう。
羽生はそんな間抜けな人間ではない。
わたしも自分の中にそんなものを見たことはない。
ただ、「才能」という言葉を知っているに過ぎない。
わが息子は将棋のプロになれるのだろうか。
おそらくなれないのだろうと思う。
そう思うときにあの子のした努力はなんなのだろうかと思ってしまう。
そのことを書いた本として「将棋の子」(大崎善生著)がある。
とても哀しいが、とてもいい本だ。
どぶに捨てるように努力をした先に何が見えるのか。
そのことを描いた作品だ。
ときに、わたしのこの人生と引きかえにあの子を将棋のプロにできるならそうしたいと思うことがある。
あの子がプロになろうとする思いと、その意志がまっとうできることを思えば、わたしのこんな人生など何の価値もないのだ。
無限に近い努力をした先に仕合わせがないなどということがあるのか。
あるのだよ。
哀しいなあ。
こんな青空の下で、こんなことを思うなんて。
「東京ワッショイ」をたまたま聞いていた。
ふと息子のことを思ってしまったではないか。
なぜかは知らない。
哀しみだけが残る、そんな無慈悲な時間のなかに置き去りにされただけのことだ。
ラベル: 日常 考察
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