2009年11月14日土曜日

暗い話でいつもスミマセン

北山修も加藤和彦のことをしゃべっていたが、やはり生きている側の発言だった。
ああいうさよならの仕方では、残った側が切なすぎるではないか。(そういう内容だ、ひと言で書けば)

けれどもさあ、加藤さんは死の側に希望を見て、あちらの側へ消えていったわけではないのだからさ。
生き続けることに嫌気がさした、それだけなのだからさ、それを止められなかったわれわれにも問題はあるのじゃないだろうか。

こういう疑問を提示するのは、生き続けることがそれだけでとても困難なことだという認識があるからだ。

人は誰かに、何ものかに、生きていっていいんだよと寄り添ってもらいたいんで、その一人が北山修だったとしたら、その問題を扱わないと北山さんもまずいよね。

それとも生がいとも簡単に継続できる事実だと考えているのなら、いくら知人であっても他者の死に対して中傷してはいけないと思うな。
だって、相手は、もうおさらばしちゃったわけだし、生の認識の違うその相手の不義に怒るのはあなたの勝手な話だものな。

ラベル:

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム