2009年11月13日金曜日

鼎を失いたるもの

生きるために何ものかを鼎のごとく信じていた者がその鼎を失いたる場合、寄り添うことでしか癒せはしないと相場は決まっているのだが、たとえ寄り添ったところで致し方ない場合もある。(何の役にも立たないことは多い)

それでも寄り添うに勝る便宜はないのであって、残るはその寄り添い方だが、この方に関しての情報は極めて少ない。

なぜならそれは秘儀に属するものにして、多くは神の領域に極めて近いからである。
愛と恋の違いはなどという児戯に似たような疑問を発することがあるが、その違いの大きな一つは愛には主体者がいないということである。

もちろん愛も恋も一つの行為であるのだから主体者の存在は間違いなくそこにあるのだが、その主体を限りなく消してしまおうとするその行為(愛)と限りなく相手の目に触れさせようとするその行為(恋)の違いを愛と恋という言葉でなぞってみたりはする。

そのとき、寄り添う行為が圧倒的に愛に近いものであり、同時に神の領域が主体者の絶対性という帳を下ろすことで主体者を見えなくさせてもいることに気づくかもしれない。

いやいやこんなうだ話を書くつもりはなかったのだ。

生きていく支えて思っていたものを失った人間が今、身近にいて、その人間が、生きていくために何の役にも立たない己を嘆いてみただけのことです。

嗚呼…

つまらぬ感傷を読み飛ばしください。

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