2009年11月16日月曜日

生存する危機と生きている不安

「生存する危機」と「生きている不安」の二つを比較すれば、「生きている不安」などずいぶん甘っちょろい風に聞こえるが、果たしてそうだろうか。

「生存する危機」とは食い物がないとか、政治的に極めて不安定で圧殺されているとか、極寒の中避難する場所がないとか、まさに生命が脅かされている状態だが、そんなとき人は無意識のうちに生きようとする。
生命に危険が迫るとき、人は死から逃れよう、つまり文句なく生きようとする。
どうやらそのように動くというのがわれわれの常らしい。

問題は生命に危険な状態ではないときに起こる「生きている不安」のほうだが、これは「生存する危機」状態にあっても常にわれわれは持っている。
けれども「生存する危機」状態によって忘れさせてもらっているのだ。

もちろん「生きている不安」を忘れさせてくれるのは「生存する危機」的な状況だけではなくほかにもある。
それが何であれ、忘れさせてくれているのであれば、それでいい。

問題は「生きている不安」がほどけなる状態を抱えてしまったときのことだ。
そのときにわたしたちはどのように生きていけばよいのか。
忘れさせてくれるものが何一つなく「生きている不安」の真っ只中に置き去りにされた時に人はどうするか。

忘れさせてくれるものは多い。
それは「宗教」であったり「名声」であったり「虚構」であったりするが、それらのものにも反応しなくなった自分を持ったとき、つまり直感的に生きていることに何の正義もないこと、生きていること自体に正当性がないことを知ってしまったときに人はどうするのか。(事実、なかにはそんな無防備に純粋な人もいる)

こういった一見しょうもない問題にとらわれた人間を知るためには、「生存する危機」と「生きている不安」をわけて考える必要がある。
そして、「生きている不安」を見過ごせなくなった人間の不幸がある。

わたしはその人がどのような人かは知らないが、人がそんな程度のことで(実はこんなに簡単に言い切れる問題ではもちろんないのだが)苦しみ続ける状態はよくわかる。

少し気取って書けば、

わたしはあなたが何者かは知らないが、あなたが苦しんでいる状態はよくわかる

とでもなろうか。

どうすればよいのかはわたしにわかるはずもないが、ともにいることは出来ると思う。
さっき紹介した本は、そのようなことを感じる人へのメッセージだ。

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