2009年11月23日月曜日

愛されるものとしての存在

人はもともと愛される存在としてこの世に登場してきた。
愛されることはそのとき与件でさえあった。
愛されない存在は不遇であるし、そのことが不幸であった。

そういう時代が長く続いた。

その意味で人は存在し続けることが許された存在であった。
そのようにわたしは感じている。

家族の崩壊というが、もっとも大きなポイントは母親がいなくなったことである。
その母親は、「かあちゃん」と呼ばれ「おかん」と呼ばれ「おふくろ」…と呼ばれながら息子や娘らから場合によっては子供以外からも慕われ続けた。

立派だったからか?

そうではない。
母親は何の文句も言わず甘えさせてくれたからだ。

人とはそういった甘えを欲する生き物であったし、その甘えを受け止めてくれる母親を家族をひいては社会をわたしたちは持っていた。

いつのころからだろう、自立と言い出したのは、人はそんなには強くないのだよ。
もっと弱く哀しい存在なのだ。
だからこそ暖かくされていたいのだろう。

問題は、今の社会は誰かに暖かくする発想がなく他者という存在が不可欠になってきたことだろう。
他者は暖かく接する存在ではない。
あんた何者っていう存在だ。

金持ってるの?
どこ勤めてんの?
あたしに益のあることやってくれるの?

別にいやなコトバを並べたのではないのです。
これが消費社会の根底で、消費社会は他者の導入をもって始めて成立する社会なのです。

だってそうでしょう。
家族同士で売り買いしないものね、いまは違うのかな?
仲間同士も損得抜きでしょう、これはいまは違うな。

ところで、暖かくされるのを当然と思っている人間が、そうではなく自立とか出世とか金儲けに目を向けさせられる教育を施され暖かくされないことを不思議に思わなくなったとき、ひとは愛されない状態に耐えられるのだろうか。

わたしは難しいと思っている。
そんな愛のない社会で生きてきた果てに介護があり、その介護には愛が必要だとおっしゃられてもお笑い種に過ぎない。

長く生きるのが正義なのかという疑問は、正確にはこの社会で長く生きるだけの生命は承認されているのだろうかという疑問である。

もし、人の存在を認めるのならば、認めるだけの工夫をしなければなるまい。
それは貧乏の回避という短絡的な発想ではなく貧乏の共有ということも含めての考察だ。

人は貧乏を嫌うのではなく暖かくされないことを嫌うのだ。
これは持っている金の多寡ではなく、家のあるなしではなく、優れて肌に感じる温度にかかわる問題なのだ。

暖かさを見失った人間が、自分に暖かさがないことを自覚するときがある。
そのときに人は過激な行動に走る。
このことをいまは、その現象面だけばかり追いかけて考えている。(それは当然かもしれない。この社会の存続のためには)

解決は暖かさの復権だが、その暖かさを戦後われわれは恐ろしい勢いでこの社会からそぎ落としてき、そぎ落とした行動の末に違う価値観を作り共有した。
その価値観を守るがゆえに、人々の考える力も奪っていく教育制度を作った。

人は人に甘えたい。
人は誰かに温かくされたい。
当たり前のことではないか。
そういうことをせずにただ長生きさせていくことだけが正義だというのだろうか。

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