2009年11月20日金曜日

その前に読んでおくか

ジュンパ・ラヒリの「見知らぬ場所」を読もうかと思ったが、その前に「停電の夜に」を再読することにした。

うれしいことか哀しいことか、このところ再読した本に新しい発見をすることが多い。
というよりは、前はなにを読んでいたのだろうかという感慨が起こる。

「停電の夜に」は新潮文庫にもなっているが、何とも味のいい短編集になっている。
このところわたしを捉えて離れない「生存する危機」と「生きている不安」も作者の立つ周辺的な位置から救い上げられている。

外部でもない内部でもないきわめてマージナルな位置を保持できるラヒリはそのことだけで十分な才能を感じさせるが、同時に「生きている不安」を「生存する危機」との調和のなかで不可分な相互関係にあることも説いてみせる。

それが、具体を通して描写されるのは小説であるからには当然のことなのだが、きわめて巧みであり流れるように読ませるのはこの美しき女性作家の美質であろう。

現代小説の有り様にはある種の国境を越える作業が入っているのかもしれない。
その国境は、ラヒリのように実際の国境であってもいいが、それ以外にもいくつも考えられる。

その作家が酔うようにたどり着いた比喩としての国境とそれを超えていく作業にその小説の可否があるかもしれない。

だとすれば、注目されるナイジェリアのアディーチェは越えるべき国境が生々しすぎるのだろうか。
けれどもアディーチェには小説を書くにたる「生存する危機」を彼女がビアフラ戦争を越える中でもち、それを具象化の世界で再現する力があった。

誤解を覚悟で書けば、けれどもそれは硬質であまりにも「生きている不安」より「生存する危機」に寄りすぎているかもしれない。
もちろん彼女の小説が、この世にあることの意義は認めるのだが、その前に読者には好悪の感情がある。

小説は正義で読むわけではなく、そのことが時として批判の対象とされるが、まあそれもいたし方のない現象ではないのだろうか。

せいぜい批判していこうではないか。

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