2009年11月19日木曜日

けものみち

この小説に出てくる久恒刑事は明らかにロマンノワールの香りがする。
馳星周で言えば「ダークムーン」の香りだ。

これは思いつきでどちらも警官の落ちぶれ行く姿がその内面とともに追いかけられているというところが似ているので、「けものみち」がこの社会の裏構造の持つ犯罪性を書いているところに注目すれば、明らかにこれはロマンノワールの嚆矢となるもので、その悪意を前面に押し出していないところに違いがあるに過ぎない。

松本清張にこのような面があるのは気づかなかった。
けれども清張氏が犯罪の現象面よりもその動機に着目したのは知られるところであって、動機に目をつけたればこそ清張の小説が社会性を持ったと評価されることになっている。

たとえば、あの秋葉原の事件において犯人の動機についていまだに右往左往していることを見れば、清張がいかにまっすぐに動機に近づこうとしたかわかろうというものだろう。

動機に近づくにはわれの囚われた発想から逃亡することをしなければならない。
そうでなければ変わりゆく社会での変わりゆく動機に近づけはしない。
自分の理屈に合わせて見るのならば、そこには見知った風景しか見出せないわけで、あまりにも偏狭な限界が見える。
自分の理屈に合わせてみるのは情報の遮断だからである。

そういうところでいえば、あくまでも動機を追い続けた清張の小説群にいくつかの新しい息吹が宿っていたとしても不思議はなく、その意味で清張は自由であった。

思えば、馳星周の出世作そしてまた代表作の「不夜城」も丹念に動機を書き込むことで小説世界を構築させた成功策で、それがたまたま新宿の暗い部分を映し出したのは結果でしかない。
その結果だけを追いかけることで馳星周の作品は次第に面白くなくなっていったように見える。

何はともあれ動機を追い続けることのほうが本質的な作業であったのだが、彼はそうしなかった。

こんなとんでもない物語があったではなく、なぜ彼はそうしたか、なぜ彼女はそうしたかである。
もし肝心なものがあるとすれば、そこにこそ小説の魂胆があるように今のわたしには思える。

さて、いかに生誕百年とは言え、松本清張ばかり読んでもいられないので、最後に私的記念碑的な「霧の旗」を読み返し、ひとまず清張は終わりとするとしよう。

清張は、この「霧の旗」では、犯罪の根源を社会の手続きの煩雑さに写し取って見せる。
そこにあの類まれな犯罪者、ヒロイン桐子が誕生する。
さわやかな犯罪者桐子は、すがすがしい風でもあった。

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