2009年11月23日月曜日

火と戯れる女


「ミレニアム」(三部作になっている)の中ほどの作品「火と戯れる女」(「炎と戯れる女」と訳したほうがいいと思うが、これはあくまでも趣味の問題なのだろうか)を読む。
評判を越えたものではなかったが(評判があまりにも大きすぎるのだ。いわばボジョレ・ヌーボーのように)、読んで損をした気にはならない。
スウェーデンの社会が少し見えてくるし、大量の情報を詰め込んだ内容なのにマジックのようにその情報が配剤されている。
少し前に知人のノンフィクションを読んでみたが段違いであった。
それが素人とプロの差といえばそれだけだが、おそらくそういう言葉では片付けられないセンスというものがあると思う。
スティーグラーソンが彼の小説世界で情報処理をしていく力はたいしたもので、なかでも序盤と最終版に出てくる数学の話はとても素敵だった。
ミステリーのなかでこのように数学を使うのは始めてみた。
フェルマーの残した余白の書置きが、
「この命題に関し、わたしは実に驚くべき証明を発見したが、余白が狭すぎてここには書ききれない)
これほど見事にこの小説にマッチするとは、ラーソン先生の若死にが惜しいくらいだ。
フェルマーの最終定理はワイルズによって1994年に証明されるが、それはフェルマーの意図した証明とは違ったものであったろう。
フェルマーの生きた17世紀フランスには現代のコンピュータは影も形もなかったからコンピュータを使用した証明はズルだもの。
申し訳ない、雑感を述べていては長くなってしまう。
思えば、なるほどに大量の情報がこの小説にはうまい具合に詰まっていて一件見過ごしてしまうが、そのつめ方の鮮やかさはプロの手腕だ。
そして、この小説のもっとも大きな魅力であるリスベット・サランデルというこの社会においては異物ともいえる女性の造形は特筆に価する。
この「火と戯れる女」では、彼女がどのように社会に出現したかが述べられる。
それは彼女の意思とは程遠いところから出現し、彼女の強靭とも言える意志の世界で成立していく女の姿だ。(女と言ってはリスベットになにをされるかわからない)
この人物に対するラーソンのまなざしには信頼を置くに足る人間への愛情を感じる。
この愛情が肝心なのだ。
さらに書き込めば、この愛情なしに小説など書けるものか。
小説など所詮作り物ではないか。
その作り物がこの場に存在することを許すものはたったひとつしかない。

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