2010年3月9日火曜日

大切な人の手は握ったまま離すな

一軒おいた隣のアパートから出火し、今朝はとんでもない騒ぎだった。
風が丁度こちらの方に向かっていたので、じきに警官が来て非難するようにと言いおいていった。
わたし自身、そう慌ててはいなかったが、それでも消防団の到着前、出火もとのアパートの二階から小さいながらも業火の噴出すシーンを見たときは恐ろしさを感じた。
消防団の怒声も含め次第次第にまわりは騒然とし始め、それぞれの人の体から主体が失われていくのが感じられたのは、自分の主体も揺れ動いたからだろう。

こういうときだ。
一人称である自分が一人称を捨て去る時が訪れるのは。
そのとき自分は自分であって自分でなくなる。
群衆は群衆として動き、個々の主体はそこにはない。
そういうときがくる。

ちょうど家にいた娘と息子に避難するように伝えたが、何も伝わらない。
そういえば、遠い昔、わたしが彼らを捨て去ったことを思い出した。

彼らの小さい時、彼らの母(つまり、わたしの妻なのだが、今もその関係は哀しいことに続いている)の慕う物語(それを彼女は社会システムによって供給されたことを自覚していない)とわたしの物語の不毛な対決を避け、彼らを彼女に渡してしまった。
もちろん、息子も娘もわたしと一緒にはいたが、徐々に母親から物語を引き継いでいった。
それをわたしは見過ごした来た。

近所の火事の日に、いかに遠くまで彼らが行ったかをしみじみと思う。
たとえどんなにいやな戦いであったとしても、わたしはかれらをこの社会の持つ物語から守らなければならなかった。

その頃はまだこの世を覆っているシステムを知らなかった。
システムを守るがためにシステムの物語がこの世を席巻していることが見えていなかった。
それでもと哀しく振り返る。
わたしは、彼らを守らねばならなかった。
もう戻ることはないだろうが、それでもまた彼らと出会いたく思い、胸をかきむしることもある。

ふと思う。
あのとき手を握っていてあげていればと。

離せば取られる。
誰かに取られるのではない。
この社会を覆う物語が取っていってしまうのである。

その物語は、もちろんあなたも巻き込んでいこうとしていたし、いまもしている。
あなたの学校時代を思い出せば、その物語の具体的なイメージを教えてくれるだろう。
長い年月、学校教育はその物語を刷り込もうとしてきたはずだ。
それに対抗しようとする教師も生徒も数は少ない。

我々の仲間は数少なく、まわりを静かな海のような敵が囲んでいる。

嗚呼。
大切な人の手は握ったまま離さぬことだ、何があっても。

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