2010年3月8日月曜日

物語と偏向

Bookishな人間と参与観察する人間とどちらが優れているかという問は無意味だ。
大切なことは自分にどういう傾向があるかを知ることであり、どういう偏向を持っているかを知ることである。
それを個人の偏差であるクセやそこから少し進んだ個性にまで広げるかどうかはあなたにお任せする。
ここでは以下のことを書きとめておきたい。

自分の偏向は推進力に変わるが、そのときに偏向を自覚しているかどうかが大きな問題になってしまうことがある。
(それは歴史観にも応用できるかもしれない。)

自分が考えることには大いにこの偏向が関わってきているわけだからよくよく注意していて、まずいことはない。
自分の踏んで立つ土台を知らずに物を言う連中との話は悲しくなるほど無意味で消耗する。
あなた一人くらいは自分がどのようなグランドと偏向の上に物申しているか知っておいてもいいではないか。
もし、そのような認識をもたれているのなら、いざとなったときに偏見を捨てられる。

意識していないもの、見えないものに対してわたしたちは立ち向かう術をもたない。
しかも、人は自分の見たいものしか見ることはできない。
見えなくしているのは持ってしまった偏見によるし、どっぷりと使ってしまったあなたの物語のせいによる。

あなたが、その物語を知らないとすれば、それは不幸せであり、幸せである。
もしあなたが幸せであれば、あなたは自分の埋もれた物語を意識する必要はいまのところはあるまい。
もしあなたが不幸せであれば、あなたの不幸せはあなたの嵌ってしまった物語を知らないで解消はされないだろう。

多くの物事はかように言い切れないものなのだ。
だから、わたしもこのように二つのことを言わざるを得ない。
正確にいえば、あれもこれもずっと先にあるあれも、あっちにあるあれも、こっちにあるあれも、…みんなみんなについて述べなくてはならないのかもしれない。

整理されたものには大きな問題が宿っている。

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