ことば
ことばは意外と深い存在だ、などと思われていて、誰かがことばを発するときに思わず相手の懐深く入ってしまうことがある。
しかし、ことばはそんな上等なものではない。
もっと薄っぺらなもので、もし、あなたがことばを上等に使おうとするなら技術が必要となる。
それは、愛という行為に技術がいるのと同じことだ。
世の中には薄っぺらな愛が充満しており、同じように薄っぺらなことばが充満している。
というわけで、わたしの愛も薄っぺらなら、わたしのことばも薄っぺらだ。
だから、ときどき、これが勝負だというときにはいくつかの技術を駆使したことばで何かを伝えようとする。
川崎市役所近くの「ZABO」の主人ならその料理を呈することでいくばくかの愛を教えるようなことはできるだろうが、その料理を持たぬわたしにはやはりことばしかない。
薄っぺらなことばになんらかの技術で湿度と温度を持たせ、さらに少しの音楽性を入れてささやいてみれば、それもほんのか細く、そういうときにふと伝わる愛もある。
下世話な愛だけどさ。
そういう努力なしに発したことばはほとんど意味を持たぬものだが、ことば自体にはその文化圏が認めた意味があり、どんなに薄っぺらな、ほとんど意味内容を持ってさえいないことばでも、それに反応してしまうことがおこる。
若い女性から「きらい」と言われれば嫌いなんだろうと思う男もいれば、そばにおいでという男もいる。
ふたりは別様に「嫌い」の意味を読み解いている。
もちろん前者がその文化圏、その国家のなかで生真面目に生きているというわけだ。
後者はといえば、「きらい」ということばに何か意味があるなどとは思っていない。
事実、若い女は「きらい」ということばを意味なくむやみに発する。
通常のことばはとても薄っぺらで移ろいやすいものだ。
それに反応し硬化してしまい、かたくなに態度を決めることはない。
ことばなど放っておけば、いつまでも薄っぺらなのだ。
あなたの態度を決める力などもっていない。
ことばにはあなたと誰かの関係性を左右する力などもともとないのだ。(特別なことばを除いてはね。)
「もう、ここには来ないと約束しましたから。」
「自分のことばに縛られなくていい」
焚き火をしている山崎努が、先だってけんかした息子に言う。
確かあのケンカの際、息子は「もう来ない」と山崎演じる澤田龍彦に言うのだ。
故あって、息子と山崎は離れて暮らしている。
息子は、ああいうケンカをしたが、親父に何か引かれて、うなだれながら再訪するのだ。
その息子をちらりと見て
「自分のことばに縛られなくていい」
「それよりそばにおいで。一緒に焚き火を見ようじゃないか。こうして焚き火を見ていると、もうずいぶん火なんか見ていないことに気づくんだ…」
長い話だ。この辺で切っておきます。
とにかく、薄っぺらなことばに縛られてはいけない。
それを自分が発したとしても相手が発したとしても。
そうしないと続かない関係がある。
関係は脆弱だ。
薄っぺらなことばに簡単に壊されてしまう。
だから、自分がとても大事だと思う関係性は、薄っぺらなことばに動揺してはいけないのだ。
そんなことより、「そばにおいで」と言ってあげればいいのだ。
人と人との肉の触れ合いは、ことばの薄っぺらさに勝る。
もちろん、そうではない稀有な言葉はある。
それはあなたが苦労して紡ぎだすもので、そのとき、あなたの大切な人はそのことばに深く感じてくれるはずだ。
とにかく、ことばなんぞは薄っぺらなものなんだよ。
しかし、ことばはそんな上等なものではない。
もっと薄っぺらなもので、もし、あなたがことばを上等に使おうとするなら技術が必要となる。
それは、愛という行為に技術がいるのと同じことだ。
世の中には薄っぺらな愛が充満しており、同じように薄っぺらなことばが充満している。
というわけで、わたしの愛も薄っぺらなら、わたしのことばも薄っぺらだ。
だから、ときどき、これが勝負だというときにはいくつかの技術を駆使したことばで何かを伝えようとする。
川崎市役所近くの「ZABO」の主人ならその料理を呈することでいくばくかの愛を教えるようなことはできるだろうが、その料理を持たぬわたしにはやはりことばしかない。
薄っぺらなことばになんらかの技術で湿度と温度を持たせ、さらに少しの音楽性を入れてささやいてみれば、それもほんのか細く、そういうときにふと伝わる愛もある。
下世話な愛だけどさ。
そういう努力なしに発したことばはほとんど意味を持たぬものだが、ことば自体にはその文化圏が認めた意味があり、どんなに薄っぺらな、ほとんど意味内容を持ってさえいないことばでも、それに反応してしまうことがおこる。
若い女性から「きらい」と言われれば嫌いなんだろうと思う男もいれば、そばにおいでという男もいる。
ふたりは別様に「嫌い」の意味を読み解いている。
もちろん前者がその文化圏、その国家のなかで生真面目に生きているというわけだ。
後者はといえば、「きらい」ということばに何か意味があるなどとは思っていない。
事実、若い女は「きらい」ということばを意味なくむやみに発する。
通常のことばはとても薄っぺらで移ろいやすいものだ。
それに反応し硬化してしまい、かたくなに態度を決めることはない。
ことばなど放っておけば、いつまでも薄っぺらなのだ。
あなたの態度を決める力などもっていない。
ことばにはあなたと誰かの関係性を左右する力などもともとないのだ。(特別なことばを除いてはね。)
「もう、ここには来ないと約束しましたから。」
「自分のことばに縛られなくていい」
焚き火をしている山崎努が、先だってけんかした息子に言う。
確かあのケンカの際、息子は「もう来ない」と山崎演じる澤田龍彦に言うのだ。
故あって、息子と山崎は離れて暮らしている。
息子は、ああいうケンカをしたが、親父に何か引かれて、うなだれながら再訪するのだ。
その息子をちらりと見て
「自分のことばに縛られなくていい」
「それよりそばにおいで。一緒に焚き火を見ようじゃないか。こうして焚き火を見ていると、もうずいぶん火なんか見ていないことに気づくんだ…」
長い話だ。この辺で切っておきます。
とにかく、薄っぺらなことばに縛られてはいけない。
それを自分が発したとしても相手が発したとしても。
そうしないと続かない関係がある。
関係は脆弱だ。
薄っぺらなことばに簡単に壊されてしまう。
だから、自分がとても大事だと思う関係性は、薄っぺらなことばに動揺してはいけないのだ。
そんなことより、「そばにおいで」と言ってあげればいいのだ。
人と人との肉の触れ合いは、ことばの薄っぺらさに勝る。
もちろん、そうではない稀有な言葉はある。
それはあなたが苦労して紡ぎだすもので、そのとき、あなたの大切な人はそのことばに深く感じてくれるはずだ。
とにかく、ことばなんぞは薄っぺらなものなんだよ。
ラベル: 日常 考察
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