2007年11月18日日曜日

おいしいもの

おいしいものはいらないとは言え、これはというものがないことはない。
それは、多くの場合、前述したとおり、すべて生産者あるいは作り手の顔の見えるものだ。
食の究極は対話であり、そのためには顔が見えていなければならない。
顔が見えるためにそのものは高くなるし(ずいぶん間を捨象した。ごめんなさい。)、その根本に信用がある。
そういうわけで、そのような食の背後には必ず俺が作ったと称する顔がある。(たぶん、少しきつい顔だろう。)
それがもともとの人と人との関係であった。
しかし、この人口、それを過度に求めてはいけない。
食う以上の何かを求めるには、おそらく人が多すぎるのだ。
人は生きるためにものを食っていた。
これがはじまりだ。

本日ふらふらと出かけていったわたしは、渋谷の東急百貨店本店、地下食品売り場のなか、米専門店をみつけた。
その店の表には「米よし」とあり、わたしはその店頭にある米をみつけた。

2坪の店舗に並ぶ10産地の銘柄米のなかで最も値が張るそのコメは、5キロ1万4700円。
2006(平成18)年度産の小売米としてはおそらく日本一高い米だろう。
米櫃に立て掛けられた細長い白木の板には、墨痕鮮やかに「十日町市松之山 戸邊秀治作」としたためられている。
次の行にこうある。
「無農薬、無肥料、天日干し」

こういうコメは食してみたいものだ。
家族と一緒に。

家族はこういうものを一緒に食するためにある。
幸いと言っていいいのか、哀しいのか、わたしには家族はない。
いや、法的にはある。
しかもいまわたしがパソコンを打つそばにわたしの妻はいるが、それでもおそらく、あのコメをともに食すことはないだろう。

まあ、それだけのことだが、ときにはいいものを食ってみたいと思うときがあるということをここに書いている。

さらに言えば、戸辺さんの息子は新進気鋭の将棋四段。
これから紙面をにぎわすだろう男である。

まあ、たまにはぶらぶらと散策もいいものだ。

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