2009年11月30日月曜日

自殺者率第8位

第一位 リトアニア
第二位ベラルーシ
第三位 ロシア
第四位 スロベニア
第五位 ハンガリー
第六位 カザフスタン
第七位 ラトビア

何とも気になる国が上位を占めている。
この国では失業率が高く、きわめて暗い北国が多い。

日本だけが違うように思えるが、それでもこれらの国に追いついていくのだろうか。
北国にだけはならないのだろうが。

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随筆は小説家の命トリである

「随筆は小説家の命トリである」は室生犀星の言葉だが、ブログにもそれに似たようなところがあるのかもしれない。
だからこそ、ブログには随筆に近いものは書かないほうがいいのでしょうが、(もともと書けもしないのだろうが)いかがなものだろう。

しかし、何で自分を小説家などと思っているのだろう。
思うというよりふとそういう気がするということか。

世の中気迷いごとは多い。
せめて小さな生活を見つけて世の中を楽しむか。

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2009年11月29日日曜日

時をかける少女

原田知世版と書こうか、それとも大林宣彦「尾道三部作」の一つと書こうか。
1983年というからずいぶんに古い映画だ。

よく見てみるとこれといった事件が起きるでもなく(いまの映画が起きすぎるのだろうな)生活は慎ましやかに過ぎていく。
そのなかでちょっとしたアクシデントがあり、主人公の 芳山和子はわずかに時を移動する。
だからといって何事があるわけではない。
にしても芳山和子にとっては大事件だった。
だから、彼女は時を移動し元の世界に戻ろうとする。

それだけの話だ。
それがいまだに眺めていていやな気分にならないのは、絵コンテがしっかりしていることと舞台に選んだ尾道の魅力そして、人々がまだ穏やかに生きている姿を観るからだろう。

いまどきの映画があまりにも刺激的になっているのは、それなりの理由があるのだが、それにしても作り手の思惑に乗って、観客まで刺激的なものを求め、果ては刺激的でなければ楽しくないと思い込んでしまうのはどうしたことだろう。

どこかの山陰にしっとりとした暮らし向きをする人々にとっては、こんなささやかな時間旅行も大事件となっていたのだ。

そういえば来年には「時をかける少女」のアニメ版ができる。
どうなっているのだろうな、あの慎ましやかな人々は。

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グアム移転でさえ

思いやり予算があると言ってもアメリカ軍のグアム移転には4000億円かかるという。
そのアメリカは双子の赤字で瀕死の状態である。
さらにアフガンの戦費はかかるし資金繰りがおぼつかない。(しかも戦況もよろしくない)

まさにわらをもつかむ円高頼りである。

結果、グアム移転は当初よりも長引くだろう。
沖縄の人々が軍事基地から開放されるのは先となる。
というよりも軍事基地は入らないと言ってしまって廃止にしてもいいところなのである。

そうするとどこかの国から軍事的脅威があるというが、あるならあるでいいではないか。
非軍事的な発言で反論すればいい。

何しろ「貧困の共有」を目指すわが国であるのだから。

この世は金で回っているというのは本当で、その回っている金の力をなくしていかなければうんともすんともならない。
アメリカ軍の移転も金と無関係ではないし、軍事的バランスもそうであろう。

ところで、いま本気で他国に対し軍事的な侵略を考えている国があるのだろうか。
このものの売れない時代に守るべきは、食料とエネルギーだろうか。
侵略される国があるとすれば食料とエネルギーをもつ国だろう。
その中に日本が入ると思いますか?

よしんばそれ以外の理由で日本が侵略されたとしたらそれはそれでいいではないか。
そういう地球であったのだろう。
そう思うしかない。

軍事でなにを守ろうというのだ。
軍事で何を攻めようというのだ。

大国の思惑でやって、彼らが勝手に疲弊しただけのことではないか。
その歴史は悲惨だし、しかも表立つことは少ないが。

戦争の必要性を作ったのも大国ではないか、ただ富むためだけを思って。
日本も含め地球も夢を見ることを止めることから始めたい。
そう思う人々はいないのか。

このところときどき引っ張り出すマスードのような人がこの世界にはいた。
同じ国、アフガニスタンで日本の医師中村哲はいまも活動している。

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ドバイショック

ドバイ政府は二十五日、人工島や世界一高いビルなどの大型開発で知られる政府系投資持ち株会社ドバイ・ワールドと傘下の会社が抱える、総額五百九十億ドル(約五兆円)の債務の返済延期を投資家に求めると唐突に発表した。
米格付け会社は「これは債務不履行に当たる可能性がある」と指摘。
慌てたのは新たな損失を抱える恐れが生じた世界の金融機関で、このことでもわかるようにドバイ・ショックは借金で派手な開発を続けたドバイの成長手法の破綻を明らかにした。

ドバイは砂漠に咲いた夢の花で、その花は外資の直接投資の自由や外国人労働者の雇用の自由を完全に保障する経済特区の設置から始まる。
その結果、外国企業や資本の進出を多大に促進した。

いまとなれば、見事なあだ花だったとわかる。

あの当時日本、EU、アメリカなど世界各国の大企業がドバイに進出してきて、市内や一大リゾートエリアとして開発したジュメイラ・ビーチ周辺には超高層ビルや高級ホテル、別荘などが立ち並んだ。
さらに、多くのショッピングモールやテーマパークが建設されていた。

これらが、2007年後半に起きたアメリカのサブプライムローン問題に端を発した世界経済の低迷により、外国企業からの投資引き上げや地元企業の資金繰り悪化と、それに伴う多数の建築工事や計画中断となった。

そして投資した金は戻らなくなってきたのだった。

だからといって金が死んだわけではない。
今でも金は生き物のようにその投資先を求め世界を駆け巡っている。
その現象のひとつが今回の円高のバックにある。
それに加味して、米国が輸出に経済維持の光を見出すためにドル安を願っている事実と。

世界はすでに消費に興味を失っている。
商品に使用価値や交換価値は薄れ、見栄だけで買うような商品ばかりを作り出そうとする。
これを象徴価値というらしいが、エコカーやエコ商品に流れるようにしているのもその人の地球温暖化を考えている思慮深い人間としての象徴の演出というわけだ。

その商品を持つことによって他と違う何者かに見えるような商品、そういう商品だけが売れるのではないかと思い出しているのがこの社会だ。

けれどもそれで本当に消費への興味は復活するのだろうか。

この円高の行方は見えにくい。
一か八かのFX参入には十分にお気をつけられたい。

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2009年11月28日土曜日

思い込み

干魃(かんばつ)状態が続くオーストラリア北部特別地域(準州)の奥地の町ドッカーリバーで過去1カ月間にわたり、野生のラクダ約6000頭が飲み水を求め中心部に侵入、水道管貯水槽を壊したり、空港滑走路に入り込んだりするなど被害が拡大している。

思い込みとは恐ろしいものだ。
というより、わたしの世界はすべて思い込みで成り立っていると書いてしまったほうがいいのかもしれない。

わたしはラクダはアラブにしかいないと思いこんでいた。
しかも彼らが水に対してこれほど真剣になる姿をイメージできないでいた。

ラクダについてわたしは何も知らなかったのだな。
隣に眠る彼女のことを何も知らないように。
(ちょっとかっこよくまとめすぎか!?)

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散らばり方


何の法則性もなく落ち葉が敷き詰められている情景に遭遇したときは気づきもしなかったことなのだが、本当に落葉に法則性はないのだろうか。
妄りに生きて死んでいく人の行動には法則性はないのか。
もしないとしたら処世訓など登場するはずもなかろうに。
いや、落ち葉に法則性を見つけようとする残ないことを話しているのではなく、法則性の有無も含めてわれわれには散らばり方の諸相が見えているのだと教えてくれた人がいたことを語っている。
その人は法則性のある散らばり方として乱数をその一例にあげていた。
素数も例証されていたが、素数のもつ法則性をわたしは知らない。
そういえば、近頃やけに数学が気になる。
心に引っかかることを単に書き写してみました。
妄言多謝

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2009年11月27日金曜日

仕分け作業

仕分け作業を見ていると未来への投資を削減するのはいかがなものだろうという意見に出っくわすが、そのとき彼らの言う未来とはなんだろう。

塩見鮮一郎氏の語るようにあるとき未来には軍事費は不可欠なものであり、事実満州国は一時期日本を救ったという歴史がある。
それは著しく欠陥を背負った救国策ではあったが、それでもあの当時の国民をだますことは出来た。
満州をしっかりと語り始めたのはこの頃の作業だ。

さて、軍事費と科学の進歩はそれほどにかけ離れたものなのだろうか。
そこは考えるべきポイントだろう。

わたしが繰り返し述べる「貧困の共有」には軍事や科学は含まれない。

どうだろう、細々と生きては、というのが「j貧困の共有」の勘所だ。
見習うべきはヨーロッパの小国だろうか。
とにかく、われわれは貧困を生活に取り入れなければならないところまできている。

軍事も科学も未来永劫へのロマンを含んでいるが、人類が生き延びていくためには進歩でなく退歩が要求されている。
退歩までは行かなくても数歩戻って定常状態を保つという発想が必要だろう。

正解はいつもすばらしいものとは限らない。
いまわれわれの出せる正解には多分に残酷な要素が含まれており、そのなかには科学の進歩はあまり見当たらない。

一時の軍関係者の軍備増強のように科学進歩を金科玉条のように語らないでほしい。
はてさていつになったら「貧困の共有」を語りだすようになることやら。

本の一冊でも書いてみようかという気になる。

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マスード

長倉洋美の写真を眺めるとき、「生きている不安」について考えることに邪険になってしまう。
けれどもこの贅沢な悩みがこの国にある以上、考えずに通り過ぎることも出来ないのだろう。

贅沢であっても悩みは悩みだ。
神を持たぬことがこの悩みを大きくするが、持たなかったことも定めだろう。

マスードの語るような

「いつ死ぬかは人間の決めることではない。
 ただ、その日が来るまで懸命に生きていれば、神は喜んでくれるだろう」

気分は想像するしかない。
そのマスードも50歳になる前に自爆テロで死んだ。

思えば、わたしも生き過ぎているのかもしれない。

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2009年11月26日木曜日

第22期竜王戦七番勝負第4局

強いというのは恐ろしいもので、昨日から始まった竜王戦第四局、はや勝負が決定した。
森内が悪いわけではない。
渡辺明は竜王戦に自信を持っているのだ。

それが、恐ろしい。
渡辺は、こと竜王戦に限っては無敵になりつつあるかもしれない。

では、ほかの棋戦では?

そこが奇妙なところで、意外と弱いのだ、渡辺明は。
もちろんある程度の勝率は残しているが、竜王戦のような鬼の勝ち方はしない。

これから、あの男、渡辺はどうなっていくのだろう。
とにかく竜王戦では、これで怖い相手はいなくなったようだ。

森内の精神的な打撃はどのくらいだろう。
その意味で、羽生のもう一度の竜王挑戦が一番怖いかもしれないが、実のところどうだろう。

勝負においてのイメージ戦争ではもはや渡辺明に敵なし。
羽生がそのイメージを覆せるかどうか。
もちろん棋力では羽生のほうがまだ上手だろうが、そういうことは関係ないのだ、勝負の世界では。

棋力よりもイメージ。
もはや羽生はここ一番で渡辺に勝てないことになっている。

はてさてどうなることやらこの将棋界、人生の最後に楽しいものを見させてもらっている。

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訪れた図書館で伊集院静の古いエッセイをリサイクル本としていたのでもらってきた。

ほかの図書館のことは知らないが、わたしのよく通う図書館ではリサイクル本コーナーというのをときどき館内の隅のほうにおいていて、どうぞ持っていってくださいねというような催しをやっている。
そのなかにこれを見つけたというわけだ。
そう言えば昔、伊集院氏のエッセイは読みかじったりしていたような気がするが、まさに齧っただけであまり得心するような感じはなかった。
それが、今回この10年以上も前になるエッセイを読むと作者の実にいい心の置き方を感じるのだ。
その心の置き方にはどこか色川武大さんの名残もあって、そういえば伊集院静は色川さんに小説を教わっていたことが(教わったなどと書くと色川、伊集院両氏におまえ正気かという顔をされそうだが)あったなと思い出した。
人の見方に味があるし温度がある。
こういう人がいれば、わたしもまだ生きていけるかなと少し心持が晴れた。
いい拾い物をしたと思う。

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2009年11月25日水曜日

断腸亭日乗

「断腸亭日乗」をぽつぽつと読めるようになったのはこの頃である。

日常の出来事ではなく思考を留め置くわたしのようなブログでは1000本近くも書いているとどうしても毎度毎度の繰り返しになってしまうことが多くなりますが、それは許していただきたく思います。

というわけで、今回も同じようなことを書いてしまいそうですが、作品の評価にはその作品を書いた当事者はもちろんのこと読み手も深くかかわってきます。
難しいことではありません。
読者に力がなければ、ある種の作品群に対しては何も見えてこないことを言っているのです。

これは文章に限ったことではなく、話芸の世界でも同じことです。
落語を聞き込んでいないお客さんにはわからない落語家の味はあるものです。
だからといって談志のように声高にそのことを言い募るのは下品さを感じますが、あの気持ちはよくわかります。

だからといって客に合わせていたらオレの芸が荒んでしまう。

という談志の主張は正しい主張です。
(正しいからといっていつもそのことを大声で主張するのがいいことだとは思いません、私見ですが)

というわけで。わたしが「断腸亭日乗」を読めるようになったのは読者としてのわたしの変質です。
読めるようになったのはいいことでしょうが、この変質自体の評価は別の所にあります。
(この辺はややこしい。故によってここには立ち入らない。立ち入るときは気合がいりますもんで)

ま、とにかく、これで浩瀚な「断腸亭日乗」を読む楽しみが増えたことは喜ばしいことです。

(ところで、以前まったくわからなかった「うまやはし日記」もいまのわたしは読めるようになっているのでしょうか)

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赤朽葉家の伝説

何事に関しても雑多な批判は何も産み出しはしない。
批判をするのならそのものの、その人の最も高い地点を狙い撃つ、このこと以外に成果は上がるまい。
重箱の隅をつついて出てくるものなどたかが知れているし、肝心なものはそこにはない。
泰山を鳴動させればねずみの一匹も出てこようが、重箱の隅ではねえ。

というわけで、この小説の細かな欠点をあげつらうことはしない。
ただ、あえて書けば時間が大事な人は無理に読むような本ではない。
本好きならば読む価値はある。

この本はまだ作者が初々しく、この小説を書いた際の努力があちこちに残っている。
あきらかに一生懸命に書いている姿が透けて見えてくる。
その残滓は何ともすがすがしく拍手したくなる。

これは赤朽葉家の三代の女性を通して書かれた庶民の歴史である。
その歴史観はこの作者なりのもので、ここにも作者の真摯さが顔を覗かせる。

何しろこの作者はとてもまじめな女性なのだ。

もし時間があれば読んでみてもいいのではないかと思う。

ちなみに彼女はこの作品の二年後に、『私の男』で第138回直木三十五賞を受賞している。

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アメリカにいる、きみ

気になったものだからもう一度アディーチェを読んでみたら、何のことはない達者なもんだ。

あのナイジェリアを背負って、そのなかで人間を描くのは才能といってもいいのかもしれない。
作家の目をこの女性は持っているのだ。

それだから、ナイジェリアのなんであるかを知らない人々を、それはアフリカと言ってしまってもいいようなのだが、彼女は悲しく見つめるのだ。

「生存する危機」「生きている不安」

単純にこの二つのキーだけで彼女の小説を読み解こうとするのには少々の無理がある。
もっと厄介なものを彼女は小説に持ち込んでいて、それが彼女の小説を芳醇にしている。

彼女の小説を読んだあとは愉快になったり充実したりはしないが、世界が広がる感じはする。
そのことは、読者であるわたしにとってもどこか絶望の匂いが漂っている。

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2009年11月24日火曜日

翻訳ものは苦手

昔からぼんやりと感じていたことだが、わたしは翻訳ものの小説が苦手らしい。
苦手というのは適切ではないか。
わたしはどうやら日本語の表現を楽しむ癖があるらしいのだ。

小説にはさまざまな要素があるが、その一つにもし文字表現を楽しむというのがあるとしたなら、わたしの好みはここに集中する傾向にあるらしい。
もちろん100%ではないが、この楽しみがないと小説に対する興味が減じるようだ。

その意味で原語でそのまま読むのなら話は違ってくるのだろうが、翻訳ものに日本語の味わいが少ないとき(わりと多くあるケースだと思うのだが)、興が乗らないということになる。
それが、わたしのなかで翻訳小説はもうひとつということになるのだろう。
とくにエンターテイメントにその傾向が強いというのは、このジャンルの翻訳はそれほど日本語にこらないからではないかと思っている。
まことに失礼な話なのだが。

それもこれも含めて、英語くらいはもう少ししっかりと読めなくてはと思い始めている。

遅すぎるかな。
けど、まあ、人生暇つぶしだから。

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2009年11月23日月曜日

今考え中なんだけど…

今考え中なんだけど…あえて書いてみればさ、というのがブログで、そこがブログの良さなのだから、この点は忘れちゃたぶんだめなんだろうと思う。

ときどき、わたしのブログは矛盾だらけだとか、前のブログとの整合性が成り立たないだとか言われたりするけど、そのときは黙っているのね、だって考え中のことを書き連ねているのだから矛盾のないようにだとか整合性はどうだっけとか考えてないもん。(反論できないジャン)
そこが完成品との差なんだよな。

でもさ、たとえば小説が完成品だなんて思い込んでいると小説が書けなくしまうってことがあるんで、小説を書くときだってどこかに考え中のことをこんな感じで書いてみますという部分があってもいいと思う。
もちろん、それをブログのように垂れ流しながら書いてちゃだめなんだけどさ。

とにかく人っていうのは正しい生き物ではなく間違えることは往々にしてあるんで、それでもなんかかんか考えながら生きていくときに、ほおっーていうようなものにぶち当たる。
そのときが幸せなときかなと思う。

その幸せな感じはそのまま塊で胸の奥で受け止めて下手に言葉や絵や音楽にしないほうがいい。
その塊が表現になりたければいずれ出てくるだろうし、そのときにちょっとこんなものが表れてきたんだけどさ、という感じで表現すればいい。

その訓練としてはブログはなかなかによろしくて、わたしはこりもせず、今考え中なんだけど…という不完全さを日々書き付けているのです。

いい加減でごめんね。

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愛されるものとしての存在

人はもともと愛される存在としてこの世に登場してきた。
愛されることはそのとき与件でさえあった。
愛されない存在は不遇であるし、そのことが不幸であった。

そういう時代が長く続いた。

その意味で人は存在し続けることが許された存在であった。
そのようにわたしは感じている。

家族の崩壊というが、もっとも大きなポイントは母親がいなくなったことである。
その母親は、「かあちゃん」と呼ばれ「おかん」と呼ばれ「おふくろ」…と呼ばれながら息子や娘らから場合によっては子供以外からも慕われ続けた。

立派だったからか?

そうではない。
母親は何の文句も言わず甘えさせてくれたからだ。

人とはそういった甘えを欲する生き物であったし、その甘えを受け止めてくれる母親を家族をひいては社会をわたしたちは持っていた。

いつのころからだろう、自立と言い出したのは、人はそんなには強くないのだよ。
もっと弱く哀しい存在なのだ。
だからこそ暖かくされていたいのだろう。

問題は、今の社会は誰かに暖かくする発想がなく他者という存在が不可欠になってきたことだろう。
他者は暖かく接する存在ではない。
あんた何者っていう存在だ。

金持ってるの?
どこ勤めてんの?
あたしに益のあることやってくれるの?

別にいやなコトバを並べたのではないのです。
これが消費社会の根底で、消費社会は他者の導入をもって始めて成立する社会なのです。

だってそうでしょう。
家族同士で売り買いしないものね、いまは違うのかな?
仲間同士も損得抜きでしょう、これはいまは違うな。

ところで、暖かくされるのを当然と思っている人間が、そうではなく自立とか出世とか金儲けに目を向けさせられる教育を施され暖かくされないことを不思議に思わなくなったとき、ひとは愛されない状態に耐えられるのだろうか。

わたしは難しいと思っている。
そんな愛のない社会で生きてきた果てに介護があり、その介護には愛が必要だとおっしゃられてもお笑い種に過ぎない。

長く生きるのが正義なのかという疑問は、正確にはこの社会で長く生きるだけの生命は承認されているのだろうかという疑問である。

もし、人の存在を認めるのならば、認めるだけの工夫をしなければなるまい。
それは貧乏の回避という短絡的な発想ではなく貧乏の共有ということも含めての考察だ。

人は貧乏を嫌うのではなく暖かくされないことを嫌うのだ。
これは持っている金の多寡ではなく、家のあるなしではなく、優れて肌に感じる温度にかかわる問題なのだ。

暖かさを見失った人間が、自分に暖かさがないことを自覚するときがある。
そのときに人は過激な行動に走る。
このことをいまは、その現象面だけばかり追いかけて考えている。(それは当然かもしれない。この社会の存続のためには)

解決は暖かさの復権だが、その暖かさを戦後われわれは恐ろしい勢いでこの社会からそぎ落としてき、そぎ落とした行動の末に違う価値観を作り共有した。
その価値観を守るがゆえに、人々の考える力も奪っていく教育制度を作った。

人は人に甘えたい。
人は誰かに温かくされたい。
当たり前のことではないか。
そういうことをせずにただ長生きさせていくことだけが正義だというのだろうか。

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火と戯れる女


「ミレニアム」(三部作になっている)の中ほどの作品「火と戯れる女」(「炎と戯れる女」と訳したほうがいいと思うが、これはあくまでも趣味の問題なのだろうか)を読む。
評判を越えたものではなかったが(評判があまりにも大きすぎるのだ。いわばボジョレ・ヌーボーのように)、読んで損をした気にはならない。
スウェーデンの社会が少し見えてくるし、大量の情報を詰め込んだ内容なのにマジックのようにその情報が配剤されている。
少し前に知人のノンフィクションを読んでみたが段違いであった。
それが素人とプロの差といえばそれだけだが、おそらくそういう言葉では片付けられないセンスというものがあると思う。
スティーグラーソンが彼の小説世界で情報処理をしていく力はたいしたもので、なかでも序盤と最終版に出てくる数学の話はとても素敵だった。
ミステリーのなかでこのように数学を使うのは始めてみた。
フェルマーの残した余白の書置きが、
「この命題に関し、わたしは実に驚くべき証明を発見したが、余白が狭すぎてここには書ききれない)
これほど見事にこの小説にマッチするとは、ラーソン先生の若死にが惜しいくらいだ。
フェルマーの最終定理はワイルズによって1994年に証明されるが、それはフェルマーの意図した証明とは違ったものであったろう。
フェルマーの生きた17世紀フランスには現代のコンピュータは影も形もなかったからコンピュータを使用した証明はズルだもの。
申し訳ない、雑感を述べていては長くなってしまう。
思えば、なるほどに大量の情報がこの小説にはうまい具合に詰まっていて一件見過ごしてしまうが、そのつめ方の鮮やかさはプロの手腕だ。
そして、この小説のもっとも大きな魅力であるリスベット・サランデルというこの社会においては異物ともいえる女性の造形は特筆に価する。
この「火と戯れる女」では、彼女がどのように社会に出現したかが述べられる。
それは彼女の意思とは程遠いところから出現し、彼女の強靭とも言える意志の世界で成立していく女の姿だ。(女と言ってはリスベットになにをされるかわからない)
この人物に対するラーソンのまなざしには信頼を置くに足る人間への愛情を感じる。
この愛情が肝心なのだ。
さらに書き込めば、この愛情なしに小説など書けるものか。
小説など所詮作り物ではないか。
その作り物がこの場に存在することを許すものはたったひとつしかない。

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2009年11月22日日曜日

高齢者虐待の背景に

以下は22日の新聞記事からだ。


2008年度に確認された親族による高齢者虐待は、およそ1万5千件。殺人や心中で24人の命が失われた。
相談や通報は2万1千件を超える。 
厚生労働省の調査から浮かび上がるのは、深刻さを増す在宅介護の実態だ。 
介護保険制度がスタートして10年近くになる。
介護の必要な人が増えているのに、サービスの供給は追いつかない。
使い勝手も悪い。
介護している家族に無理がかかり、ひずみが弱い人へ行く。 
高齢者虐待を生む要因の一つは国の介護政策の貧しさにある。
サービス基盤の整備に全力で取り組むことが厚労省の責務である。 
まずは量の問題だ。
介護施設が圧倒的に不足している。
特別養護老人ホームへの入所待ちが40万人近いとされる
グループホームなども満杯だ。 
サービスの利用には制約が多い。
柔軟性にも欠ける。
介護者が疲れたり急用ができたりしたとき、お年寄りを安心して預けられる場を探すのはひと苦労だ。 
今年春の要介護認定基準の変更では、実際よりも要介護度が軽く判定される傾向が強まり、利用できるサービスが減ってしまうケースが各地で相次いだ。
現場の批判を受けて修正したものの、利用の抑制と取られかねない。
国はこれまで社会保障費を抑えようとするあまり、介護サービスの充実を後回しにしてきた。
この姿勢を改め、介護負担の軽減に力を注がなくては、問題の抜本的な改善は図れない。
厚労省は肝に銘じるべきだ。 
虐待を防ぐには、地域で介護者や本人をきめ細かく支える態勢が大事になる。 
調査では、虐待の9割近くが同居世帯で起きている。
自治体に虐待を相談、通報したのは、ケアマネジャーらが4割で最も多い。 
家族介護は密室化しやすいことに注意が要る。
介護サービスや医療、福祉などが積極的にかかわって、トラブルを家族だけで抱え込まないよう目を配る必要がある。 
介護者の心のケアも欠かせない。
介護疲れに加えて、自身の健康面や経済面に不安を抱えている人も少なくない。
安心して相談したり、介護者同士で思いを語り合える場を増やしたい。 
虐待の被害者の半数近くに、認知症があった。
認知症の在宅介護は厳しく、家族は追い詰められやすい。
本人が認知症の症状ゆえに虐待を受けていても被害を訴えられないケースもある。
とりわけ手厚い支援が必要だ。
(太字強調はとんぼ丸による)


繰り返すが、この国にこれだけの人数の高齢者に安心な老後を送らせるだけの力はない。
何人かは保護されることなくそのまま死んでいかなければならないが、それを国が口にすることは出来ない。
人道主義は壊せないから。

(そんなに人の命は大事かねえ)
(その命というのはわけ隔てなく平等に存在しているのかな)

(問題はそこまで考えなければならないということだ。
 そして、考えないことを目指してきた個の社会はただ生きていくことを正義としてきた。
 だが、それは本当にそうなのか)

けれども人が生きるというのはどういうことであったのだろうか。
支援をしてまで人を生かすという発想は正しいのか。
(生きるのではなく生かすだ)
(末期のがん患者に声援を送ってさらに生存させようとする。
 よく似た話ではないか)

とにかく人が生きるというのはどういうことか本格的に考えなければ、老人から幼児へと弱者切り捨ての現象が陸続と進行していく。
高齢者の虐待はそのはじまりの一つの現象にすぎない。
いや、すでに現象はあちこちに起こってきていて、その一つを取り上げたに過ぎない。

この国にそれほど多くの必要ではない人々(だれにとって、なににとって必要でないのか?)を養う力はないのだ。

勝手に死んでいけと言ってみたらどうだ。
この国は、思ったほど平和ではないのだ。

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アトランティスのこころ

この映画の監督は「シャイン」で名高いスコット・ヒックスだが、日本では工藤夕貴の出演で「ヒマラヤスギに降る雪」でも知られている。

小説に文体があるように映画にも監督の貴重低音は共通に流れるもので、スコット・ヒックスの作品にはある落ち着きと少しの騒がしさがある。
そして、よく観ているとじんわりと泣けてくる部分がある。

それは、貴重低音の構成要素として人が生きていくことへの応援歌があるためかもしれない。

この映画もまた、生きていくうえで大事にしなければならないものが、外から見れば(他者の目で見れば)それほど大げさなものではないことがわかる。

その些細なものが大きな力となってくれるという秘密をぼくらは早くに忘れすぎたのかもしれない。

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2009年11月21日土曜日

生存する危機

「生存する危機」について一つの社会を塊として考えていた。

そうではなく、「生存する危機」はその人が生きている社会に大きく関係するが、その人自身が選び取る場合もある点も忘れてはならなかった。

「ミレニアム」という評判の小説があるが、この作家の生き方がそうであった。
急逝した彼は、癌のために死んでいくのだが、彼の生き進んだ道は「生存する危機」と深くかかわっていた。
それはまさに彼の選び取った道である。

比喩としてどうかと思うが、山登りのようなもので危険承知の登山には「生存する危機」は常についてまわるわけで、そのことが生きるよすがにもなっているという微妙な関係がある。

スティーグ・ラーソンもまたそうであって、この世に存在する「生存する危機」に無関心でいられなかった。
それは彼の故国スウェーデンだけに止まらなかった。
さておき、彼の故国にも大きな問題があったことをこの小説を通じて知る。

その社会にありながらたまたま「生存する危機」に出合っていないからといって、この社会には「生存する危機」の姿は見えなくなってきたなどとのたまうわっているのは愚だ。

一つの社会ではなく「生存する危機」から遠く離れた人々といまだに「生存する危機」に接している人々がいるわけで、そのグループは一つの国などという大雑把なくくりでは縛りきれない。

オレは何も見えていないのだなあとしみじみ思う。

スティーグ・ラーソンは「ミレニアム」の大ヒットを知らずに50歳でこの世を去った。
いい死に姿かもしれない。

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2009年11月20日金曜日

高齢者への虐待

高齢者への虐待、2年連続で増加

 高齢者が家族や介護施設の職員らから虐待を受けたケースが2008年度1万5000件近くにのぼり、2年連続で増加したことが分かりました。
厚生労働省の調査によりますと、65歳以上の高齢者が家庭内で家族やなどから虐待を受けたと確認されたのは、今年3月までの1年間で1万4889件にのぼりました。
虐待の種類は暴力などの身体的虐待が64%、暴言などの心理的虐待が38%、またおむつを替えないなどの介護放棄も27%に達しています。(複数回答) 虐待を受けたのは女性がおよそ8割を占め、年齢別では80歳以上が40%あまりにのぼっています。
一方、虐待を加えていたのは息子が最も多く40.2%で、ついで夫(17.3%)、娘(15.1%)となっています。 死亡したケースは24件で、うち殺人が10件、介護放棄が5件、心中が2件、傷害致死が2件などで、2年連続で減少しました。また、介護サービスを利用している高齢者が介護施設の職員らから虐待を受けるケースは、1年間で70件ありました。
厚労省では3年前の高齢者虐待防止法の施行によりケアマネージャーなどからの通報が増え、高齢者虐待の実態が明るみになってきているとしています。


多くの説明は要らないだろう。
この社会にとって、老人は要らないものなのだ。
その老人を必要と感じる場合は、関係性を持った人間にとってだけの老人であり、そういった関係性を持たぬ老人たちはこれからも虐待が加え続けられるだろう。

これが、この社会の正体であり、長生きすることが正義ではないといったのはこの意味である。

社会のあるように人は踊る。
個人に責任はないとは言わないが、社会の構造が現象を産み出しているのならば、その減少を止めるのは大変だろう。

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その前に読んでおくか

ジュンパ・ラヒリの「見知らぬ場所」を読もうかと思ったが、その前に「停電の夜に」を再読することにした。

うれしいことか哀しいことか、このところ再読した本に新しい発見をすることが多い。
というよりは、前はなにを読んでいたのだろうかという感慨が起こる。

「停電の夜に」は新潮文庫にもなっているが、何とも味のいい短編集になっている。
このところわたしを捉えて離れない「生存する危機」と「生きている不安」も作者の立つ周辺的な位置から救い上げられている。

外部でもない内部でもないきわめてマージナルな位置を保持できるラヒリはそのことだけで十分な才能を感じさせるが、同時に「生きている不安」を「生存する危機」との調和のなかで不可分な相互関係にあることも説いてみせる。

それが、具体を通して描写されるのは小説であるからには当然のことなのだが、きわめて巧みであり流れるように読ませるのはこの美しき女性作家の美質であろう。

現代小説の有り様にはある種の国境を越える作業が入っているのかもしれない。
その国境は、ラヒリのように実際の国境であってもいいが、それ以外にもいくつも考えられる。

その作家が酔うようにたどり着いた比喩としての国境とそれを超えていく作業にその小説の可否があるかもしれない。

だとすれば、注目されるナイジェリアのアディーチェは越えるべき国境が生々しすぎるのだろうか。
けれどもアディーチェには小説を書くにたる「生存する危機」を彼女がビアフラ戦争を越える中でもち、それを具象化の世界で再現する力があった。

誤解を覚悟で書けば、けれどもそれは硬質であまりにも「生きている不安」より「生存する危機」に寄りすぎているかもしれない。
もちろん彼女の小説が、この世にあることの意義は認めるのだが、その前に読者には好悪の感情がある。

小説は正義で読むわけではなく、そのことが時として批判の対象とされるが、まあそれもいたし方のない現象ではないのだろうか。

せいぜい批判していこうではないか。

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ボジョレー・ヌーヴォー


ここ10年あまりのボジョレー・ヌーヴォーの評価は以下のようである。



95年「ここ数年で一番出来が良い」

96年「10年に1度の逸品」

97年「1976年以来の品質」

98年「10年に1度の当たり年」

99年「品質は昨年より良い」

00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」

01年「ここ10年で最高」

02年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」

03年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」

04年「香りが強く中々の出来栄え」

05年「ここ数年で最高」

06年「昨年同様良い出来栄え」

07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」

08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」



ご存知のようにボジョレーはブルゴーニュワインの産地のなかのある地域を指しており、一種類のワインに限られているわけではない。
ボジョレー・ヌーヴォーとは、その新作群というわけである。
わたしにはあまり興味がない。
なに、ボジョレー・ヌーヴォーばかりではない、わたしはワインに興味がないのである。
理由は至って簡単、高いからである。
もちろん安ければ飲む。
正確に言えば、安くてある程度うまければ飲む、井筒ワインのようにね。
ところで、先の評価の変遷をどう思われますか。
ハロウィン、クリスマス、正月、バレンタイン、…金になりゃどんなイベントも取り入れる。
所詮、情報資本主義の祭りごと。
けれどもうまいものですな、このように消費者を見事乗せている。
「クリスマス!?、ろくなもんじゃねえや」
昔、場末の飲み屋で飲んだくれて同じセリフを繰り返すあの初老の親父の声を今でも思い出す。
街にゃあ、そりゃあジングルベルが喧騒としていましてね。

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2009年11月19日木曜日

けものみち

この小説に出てくる久恒刑事は明らかにロマンノワールの香りがする。
馳星周で言えば「ダークムーン」の香りだ。

これは思いつきでどちらも警官の落ちぶれ行く姿がその内面とともに追いかけられているというところが似ているので、「けものみち」がこの社会の裏構造の持つ犯罪性を書いているところに注目すれば、明らかにこれはロマンノワールの嚆矢となるもので、その悪意を前面に押し出していないところに違いがあるに過ぎない。

松本清張にこのような面があるのは気づかなかった。
けれども清張氏が犯罪の現象面よりもその動機に着目したのは知られるところであって、動機に目をつけたればこそ清張の小説が社会性を持ったと評価されることになっている。

たとえば、あの秋葉原の事件において犯人の動機についていまだに右往左往していることを見れば、清張がいかにまっすぐに動機に近づこうとしたかわかろうというものだろう。

動機に近づくにはわれの囚われた発想から逃亡することをしなければならない。
そうでなければ変わりゆく社会での変わりゆく動機に近づけはしない。
自分の理屈に合わせて見るのならば、そこには見知った風景しか見出せないわけで、あまりにも偏狭な限界が見える。
自分の理屈に合わせてみるのは情報の遮断だからである。

そういうところでいえば、あくまでも動機を追い続けた清張の小説群にいくつかの新しい息吹が宿っていたとしても不思議はなく、その意味で清張は自由であった。

思えば、馳星周の出世作そしてまた代表作の「不夜城」も丹念に動機を書き込むことで小説世界を構築させた成功策で、それがたまたま新宿の暗い部分を映し出したのは結果でしかない。
その結果だけを追いかけることで馳星周の作品は次第に面白くなくなっていったように見える。

何はともあれ動機を追い続けることのほうが本質的な作業であったのだが、彼はそうしなかった。

こんなとんでもない物語があったではなく、なぜ彼はそうしたか、なぜ彼女はそうしたかである。
もし肝心なものがあるとすれば、そこにこそ小説の魂胆があるように今のわたしには思える。

さて、いかに生誕百年とは言え、松本清張ばかり読んでもいられないので、最後に私的記念碑的な「霧の旗」を読み返し、ひとまず清張は終わりとするとしよう。

清張は、この「霧の旗」では、犯罪の根源を社会の手続きの煩雑さに写し取って見せる。
そこにあの類まれな犯罪者、ヒロイン桐子が誕生する。
さわやかな犯罪者桐子は、すがすがしい風でもあった。

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伊集院光


伊集院光の芸能生活にはその落語家時代からたどれば、いくつかの紆余曲折があるが、彼がとても真剣に生きようとしているのは間違いはない。

つまりは死なない工夫を凝らしている。
現在の彼は、週三日だけしか働かないことにしているが、それだとてあとの四日は働く三日間への先行投資をしているわけで、これを落語の世界ではお稽古と呼ぶ。
ご存知のようにテレビ芸人にはこのお稽古が必要ないわけで、ちゃらちゃらやりながら、そのちゃらちゃらになれた視聴者とともに騒いでいるというのが現状だ。
そのなかにあって深夜番組を中心に建て直しにかかっている伊集院光の真っ当さには目を見張るものがある。

彼の発想の基本には落語にあって、その話は具体に重きを置く。
そこに彼の話に芸能の匂いがついてまわる秘密がある。
そして、今この芸能の匂いのある話しが出来る人はそれほど多くはない、というかわたしは彼以外にあまり知らない。

ちゃらちゃら芸人を抜け出したい多くの人間は抽象に傾く。
具体具体でそこを押して突き抜けていくのはそれほど難しいのだ。

その意味で、太田光の努力が抽象的なところで開花するのと伊集院の花の咲かせ方の違いは歴然としている。
芸人としては、伊集院が上だろう。

けれども太田光の屈折と生真面目さをわたしは好んでいるので、爆笑問題をとやかく言う気は毛頭ない。
しかし、今の伊集院光の生きかたはかつ目するに値する。

繰り返すが、これは彼が落語家時代を持っていることと裏腹ではなかろう。

生真面目になりすぎず生きていってほしい。

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2009年11月18日水曜日

それでも生きている

生き死にのことばかり書き綴っていますが、これを書いている本人は生きているわけですから、生きる側を贔屓にしています。
だからといって死んだ人を悪く言う立場には立たないと申し上げているだけです。

生きている側から言えば、それでも生きていてくれと言うのが仁義です。
これには理由がありません。
ここをはっきりと示さないと困ります。

理由はないけれど、たまたま生きているものだから生きていることを続けてみようではないか、その程度のことで生きていると申し上げているのです。
この程度でお嫌なら、それぞれにそれぞれの生きている間の愉しみごとを見つけてほしいなというのが本音ですが、それがうまくいくかどうかはわかりません。

それでも生きているのだから、尋ねられれば、生きていようよと応えます。

しかし、出来ればそんなことは考えずに酒の酔いの中にでも生きていられればいいのですが…
すべてを忘れて…

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2009年11月17日火曜日

11年連続3万人超え

ことしの「自殺対策白書」によると、去年1年間に自殺した人は、11年連続で3万人を超え、人口10万人あたりの自殺者数は、先進7か国の中で日本が最も多かったとNHKが伝えた。ことしの「自殺対策白書」によると、去年1年間に自殺した人は3万2249人で、おととしと比べて800人余り少なくなったものの、11年連続で3万人を超えています。
また、人口10万人あたりの自殺者数は23.7人で、先進7か国の中で日本が最も多かった。自殺の原因については、原因を特定できた2万3000人余りのうち、

最も多かったのが▽「健康問題」で65%、
次いで▽「経済・生活問題」が32%、
▽「家庭問題」が17%となっている。

さらに、ことしの白書では、遺族からの聞き取り調査から明らかになった自殺予防のポイントをまとめ、働き盛りの中高年男性の自殺者の場合、不眠や苦痛を解消するためアルコールに頼って大量摂取する傾向がみられたとして、アルコールと自殺の関係について、より注意すべきだとしている。
一方、去年多く発生した硫化水素による自殺について、報道での取り上げ方との関係を調べたところ、去年4月と5月の自殺者数と同じ時期の新聞やテレビでの報道の数が比例していると分析している。


とまあいろいろあるが、分析される方はくれぐれも生存する危機的状況にないのに生きる不安だけで自殺するのはおかしいなどと短絡的に考えないでほしい。

生きていることはそれだけで正しいと言い切れはしないのだ。
たとえあなたがそう思っても死んでいった彼らはそうは思っていなかったのだ。

彼らを知りたければ、「生きる不安」とは何かを知ろうとすることだ。
こいつは底なし沼のように深い問題で、あなたたちがよくやるようにちゃっちゃかちゃっちゃかと結論は出せはしないのだ。

いいかな、出せないから人は死んでいくのだ。
人は死に引き寄せられて死んだではない。
あなたたちが現に生きている生に興味を失ったのだよ、たとえ危機的状況ではない生であったにしてもだ。

生きることが正しいなどと思っているうちは何も見えてはこない。
いや、むしろあなたたちは何も知らないほうがいいのだ。

われわれが生きていける場所を提供してくれるのであれば。

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ミシュラン

仏タイヤメーカーのミシュランは17日、レストランを星の数で格付けする「ミシュランガイド」の2010年東京版の掲載店舗を発表した。197店と昨年より24店増え、引き続き世界一の美食都市としての評価を受けた。
 最高の三つ星は11店で、新顔は和食の「えさき」(渋谷区)「幸村」(港区)とすしの「鮨さいとう」(同)の3店。いずれも昨年の二つ星からの昇格。二つ星が42店、一つ星は144店だった。
 全体の7割近くを日本食のジャンルが占め、新たに精進料理、居酒屋、串揚げ、焼き鳥の店も加わって、より東京ローカル色を強めた形だ。
 現在パリの三つ星は10店。ついに東京が追い抜いたことについて、ガイド総責任者のジャンリュック・ナレさんは、「純粋にその都市の料理のレベルを評価した結果で、それだけ東京は素晴らしい。ただし、パリに比べて東京の飲食店の数は4倍ということも付け加えたい」と話した。

どこがうまいとかまずいとか、楽しいことですね。
それより、一人の西健一郎を知ることのほうがずっと大事に思えるのですが、その三ツ星や二ツ星には、それぞれの西さんがいらっしゃるのでしょうか。

早々単純な話ではなさそうに思えるのですが。

もちろん、ここでいう西さんは単なる料理人としてではなく生きる人としての西さんのことです。

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西健一郎という人

西健一郎という人が何故に素敵に見えるかといえば、彼が料理空間のことしか考えていないからです。

それは、自分の料理はうまいだろうとか、料理の世界では有名になったとか、結構金ももうけましたとか、そういったまじりっけのようなものを追っかけはいないということで、その姿には生きる美しさがあるように思います。

わたしはたまたまこのように生きさせてもらっておりますんで、そのなかでがんばらさせてもらいます。
これがまあわたしの生きるということで、生きているうちは一生勉強です。

生きるということを料理に同化してその世界だけでただただ生きているというのは、まさに西さんにとっての死なない工夫でありその工夫もここまで長く深く続けているといつか生きているということも忘れ、ただ料理をしているということのみになってくる。

驚くべきことだ。

こういう姿を観ると生きることにうまく殉じたのだなあという素直な感動がある。

西さん、おきばりやっしゃ。
いつか、食べに行きますわ。

http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/090224/

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わるいやつら


寝つけられないまま松本清張「わるいやつら」を読む。
主人公の戸谷信一はわるいやつらの一人だが、殺人を始めさまざまな悪事に身を染め、かろうじてこの世に身をつなぐ彼の姿に自分の身を合わせた。
わたしは犯罪者ではないが、この世に受け入れられていないというところではまるで同じだ。
戸谷信一の哀しみは身をもってはわからないが、戸谷という主体を除いたただそこに横たわる何ともいえぬ哀しみは共有できる。
主人公戸谷に自分を同化することなく、この小説のなかに自分を見た。

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2009年11月16日月曜日

松屋は牛めしだ

訂正です。

松屋は「牛丼」ではなく「牛めし」だそうです。
どっちでもいいやと思っていましたが、いまさっき、とても大切なことを思い出しました。

どこかで聞いた学生の会話です。


調子悪いときってさ、松屋がいいよね
ああ
吉野家ってさ、声出さなきゃだめジャン
ああ
松屋って、それってないもんな、黙って喰って、出てくるだけでいいもん
そうそう
声出すのって、結構疲れるもんな
言えてる


そんな風な会話でした。

これは、自動販売機の有無を言っているのでして、
松屋は自動販売機で食券買って、それ出して食って出てくるだけでいいじゃん、けど吉牛は声出して注文しなくちゃいけねえから、かったるいよな。

そういうことを語っているのです。
彼らもなかなか大変なのです。

そこではたと気づいたのですが、わたしは松屋では食券を示しているだけだから「牛丼」も「牛めし」も区別がつかなかったのでした。
なるほど、それでわからなかったのか。

なるほどと理解したあとに、あらためて訂正させていただきあす。

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生存する危機と生きている不安

「生存する危機」と「生きている不安」の二つを比較すれば、「生きている不安」などずいぶん甘っちょろい風に聞こえるが、果たしてそうだろうか。

「生存する危機」とは食い物がないとか、政治的に極めて不安定で圧殺されているとか、極寒の中避難する場所がないとか、まさに生命が脅かされている状態だが、そんなとき人は無意識のうちに生きようとする。
生命に危険が迫るとき、人は死から逃れよう、つまり文句なく生きようとする。
どうやらそのように動くというのがわれわれの常らしい。

問題は生命に危険な状態ではないときに起こる「生きている不安」のほうだが、これは「生存する危機」状態にあっても常にわれわれは持っている。
けれども「生存する危機」状態によって忘れさせてもらっているのだ。

もちろん「生きている不安」を忘れさせてくれるのは「生存する危機」的な状況だけではなくほかにもある。
それが何であれ、忘れさせてくれているのであれば、それでいい。

問題は「生きている不安」がほどけなる状態を抱えてしまったときのことだ。
そのときにわたしたちはどのように生きていけばよいのか。
忘れさせてくれるものが何一つなく「生きている不安」の真っ只中に置き去りにされた時に人はどうするか。

忘れさせてくれるものは多い。
それは「宗教」であったり「名声」であったり「虚構」であったりするが、それらのものにも反応しなくなった自分を持ったとき、つまり直感的に生きていることに何の正義もないこと、生きていること自体に正当性がないことを知ってしまったときに人はどうするのか。(事実、なかにはそんな無防備に純粋な人もいる)

こういった一見しょうもない問題にとらわれた人間を知るためには、「生存する危機」と「生きている不安」をわけて考える必要がある。
そして、「生きている不安」を見過ごせなくなった人間の不幸がある。

わたしはその人がどのような人かは知らないが、人がそんな程度のことで(実はこんなに簡単に言い切れる問題ではもちろんないのだが)苦しみ続ける状態はよくわかる。

少し気取って書けば、

わたしはあなたが何者かは知らないが、あなたが苦しんでいる状態はよくわかる

とでもなろうか。

どうすればよいのかはわたしにわかるはずもないが、ともにいることは出来ると思う。
さっき紹介した本は、そのようなことを感じる人へのメッセージだ。

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老師と少年


この本は、名作だと思う。
著者がこの問題と長く付き合ってきたことが本当にわかる。
長く深くだ。
けれどもこの本を必要としているのは万人ではない。
この本が名作であると感じるのは一部の人だと思う。
その一部の人が増えつつあるとしたら、それはこの時代の宿命だろう。
この時代の必要とするものが、
「生きる意味より死なない工夫」
ならば、この本はとても大切な本になってくるだろう。
生存する危機と生きる不安は圧倒的に違う。
貧困率とは生存する危機に対する指標のつもりだろうが、実は生きる不安と密接につながっている。
この時代は豊かになった。
その豊かさが生きる不安の浮き彫りにつながっている。
生きる不安はそれを感じる人もいれば感じることのないまま生き抜けていく人もいる。
生き抜けていければそれでいい。
もしそうでないのならば、生きる不安から目が放せないのなら、この本がわずかながら助けてくれる。
わずかながらと書くのはこの本の中にはその解決策が示されてはいないからだ。
示されていないだけではなくもっとショッキングなことが書かれている。
けれどもそのショックを通り抜ける以外に道はないのかもしれない。
今のわたしにもそう思える。
死なない工夫というからには、放っておけば死んでしまうかもしれない人間を書いているのだ。
なんとまあ人は脆弱なものなのだろう。
そして、この社会はその脆弱さに目をふさいだ人たちが作っているとしたら、生き難い人たちの存在が少しは見えてくるだろうか。

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2009年11月15日日曜日

テレビのもつ力

昨今のテレビに顕著な力とは、見るものの思考力を奪っていく力だろう。

出演者の側は、どうにかしてテレビの世界に生き残りたいのだから、ああしたらどうかこうしたらどうかの思考力は根強くあるし、そのことをたゆまず考えた人間が生き残る。
けれどもそのことが、そのまま視聴者に思考力を与えることを意味はしない。
出演者がいかにいろいろと考えていたところで、それは出演者の側のことであって、視聴者とは別のところにある。

はっきり言えば、彼らにとって視聴率は大いに意味があるが視聴者個人に意味はない。

さて、彼らは視聴者個人をどう思っているかといえば、ものを考えない人々だと思っている。
なに、メディアリテラシーなどという横文字を持ち出すまでもなく、そのことはテレビを見ていればよくわかる。

わかりやすくわかりやすく、視聴者が何も考えなくてもすむように今のテレビ番組は作られている。
その結果、視聴者は何も考えない方向に導かれていく。

番組の間にコマーシャルが流れる。
あらま、よさそうな商品だこと、買ってみようかしら。
てなもんである。

テレビが一種の洗脳だというのはこのことである。

私見ではあるが、テレビを見るならば「YOU TUBE」を見るほうがいい。
「YOU TUBE」には、あなたに合った作品があるし、それを探すことも出来る。
中には、何事かを学ばなければならなくなってしまう作品もある。

「あの人に会いたい」というプログラムなどを見ているとしきりにそう思う。
かつてはいいテレビ番組もあったということだ。

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色川さんの語るように

ある程度映画も見ていくとなかなかその内容で心動かされるというようなことはなくなり、ただ見たというだけになってしまう。
それでも見てしまうのはもはや病気で、なんとも不可思議なものだが、もともと生きるというのがそういうもので無理に感動を探してはいけないのだと思う。

クリント・イーストウッドがらみで見た映画だが、一定のレベルは保っているもののそれ以上語ることはないだろう。
この手の映画には、ドン・シーゲルと組んだダーティーハリーを代表する何作もの彼主演のものがあり、とくにダーティー・ハリーシリーズが勝る。

ただこの映画はお楽しみが一つあって、娘のアリソン・イーストウッドとの競演がある。
この娘がなかなかの好演であった。

そういえば、アメリカンフットボールのボールが小道具として登場してくるが、この小道具の使い方も映画らしかったな。

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2009年11月14日土曜日

松屋の牛丼


店頭に松屋史上最高のたれが出来たとあるので、ふらふらと入り牛丼を食す。
金290円なり。
異常な安さである。
そしてこれが実にうまかった。

最低の飯に最低の牛肉、玉ねぎはわからない(わたしは極度の玉ねぎ嫌いなので)。
それをしてここまで食わせるとは。

もちろん完食の後の食後感はかなりひどいものであったが、それはここでの問題ではない。
この飯と牛肉を食わせるたれを作った努力に素直に感動したい。

立派なもんだと思った。

しかし、まずいはまずいので、毎日食べることはないだろうが、それでもたまには食べてみようかという気になる。

松屋は良心的な店だと思う。

他の牛丼との比較は出来ないが、すき家のものよりは圧倒的に上等なまずさである。

なるほど、上等なまずさというジャンルがあったか。

松屋、えらい!

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暗い話でいつもスミマセン

北山修も加藤和彦のことをしゃべっていたが、やはり生きている側の発言だった。
ああいうさよならの仕方では、残った側が切なすぎるではないか。(そういう内容だ、ひと言で書けば)

けれどもさあ、加藤さんは死の側に希望を見て、あちらの側へ消えていったわけではないのだからさ。
生き続けることに嫌気がさした、それだけなのだからさ、それを止められなかったわれわれにも問題はあるのじゃないだろうか。

こういう疑問を提示するのは、生き続けることがそれだけでとても困難なことだという認識があるからだ。

人は誰かに、何ものかに、生きていっていいんだよと寄り添ってもらいたいんで、その一人が北山修だったとしたら、その問題を扱わないと北山さんもまずいよね。

それとも生がいとも簡単に継続できる事実だと考えているのなら、いくら知人であっても他者の死に対して中傷してはいけないと思うな。
だって、相手は、もうおさらばしちゃったわけだし、生の認識の違うその相手の不義に怒るのはあなたの勝手な話だものな。

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2009年11月13日金曜日

ありがたいことにもうすぐ3万人

このブログを3万人の人が眺めてくださっているのに何一つこれはということを書かないのはまずかろうと思っていましたが、ひとつだけ書けることがありました。

生きていることに何の理由もなく、その理由がないために何かを見つけなければならないとわたしは書いています。(その意味で人生は暇つぶし程度のもので…とか書きます)

それは本当の気持ちですが、すべてをあなた一人で背負い込む必要がないことも事実だと、ここで書いておこうと思います。

それは、あなたが誰かに愛されていれば、それだけで生きていけることもあるという事実です。
愛されるとは、あなたはあなたであるように、そこに生きていればいいのだというあなたへ降り注ぐ思いがあるということです。

それを探すことは難しいでしょうが、ふと出会うことはあるでしょう。

かつてそれは家族が、さらに言えば母親がもってくれていました。
いまは、難しいです。
難しいが故にここにもあまり書いてはおりません。

けれどもそういう道はあります。

生きていくのは苦しいものですが、出来れば、ともに歩いていきたいものです。
三万人もの人のなかにいる、あなただけに感謝して。

ラベル:

鼎を失いたるもの

生きるために何ものかを鼎のごとく信じていた者がその鼎を失いたる場合、寄り添うことでしか癒せはしないと相場は決まっているのだが、たとえ寄り添ったところで致し方ない場合もある。(何の役にも立たないことは多い)

それでも寄り添うに勝る便宜はないのであって、残るはその寄り添い方だが、この方に関しての情報は極めて少ない。

なぜならそれは秘儀に属するものにして、多くは神の領域に極めて近いからである。
愛と恋の違いはなどという児戯に似たような疑問を発することがあるが、その違いの大きな一つは愛には主体者がいないということである。

もちろん愛も恋も一つの行為であるのだから主体者の存在は間違いなくそこにあるのだが、その主体を限りなく消してしまおうとするその行為(愛)と限りなく相手の目に触れさせようとするその行為(恋)の違いを愛と恋という言葉でなぞってみたりはする。

そのとき、寄り添う行為が圧倒的に愛に近いものであり、同時に神の領域が主体者の絶対性という帳を下ろすことで主体者を見えなくさせてもいることに気づくかもしれない。

いやいやこんなうだ話を書くつもりはなかったのだ。

生きていく支えて思っていたものを失った人間が今、身近にいて、その人間が、生きていくために何の役にも立たない己を嘆いてみただけのことです。

嗚呼…

つまらぬ感傷を読み飛ばしください。

ラベル:

調子の悪い日は…

調子の悪い日は、ついつい生きていることを考えてしまう。
そして、今のところ生きていることにはほんのわずかな取っ掛かりがあればいいと思っているものだから、その取っ掛かりをあれこれと思い巡らしたりする。

とにかくほんの些細な取っ掛かりなのだから、何でもよく、ひっくり返せば、どれもこれも、そんなものはどうでもいいかといったようなものなのだが、そのどうでもいいものにでもこだわりだすといろいろと薀蓄が生じ、取っ掛かりの強度を増す。

それを生きているというのだろうが、このことは疑ってはいけない。
いけないというのは、疑い出せばいとも簡単に崩れてしまうからだ。

疑わずに些細なものにこだわる。

そういう生活の中で暮らせたら幸せだろうな。

ラベル:

2009年11月12日木曜日

人が生きていくこと

(CNN) 自殺したサッカーのドイツ代表ゴールキーパー、ロベルト・エンケさん(32)の妻テレザさんが11日、これまで公にしてこなかったが、エンケさんが過去6年間「うつ」で治療を受けていたと明らかにした。
ドイツ1部リーグのハノーバーに所属するエンケさんは10日、ハノーバー市内の踏切で列車にはねられ、亡くなった。
遺書が見つかり、警察は自殺と断定。
エンケさんの死を受け、ドイツサッカー協会は14日に予定していた南米チリとの親善試合を中止した。


いろいろな理由が重なったことだろうが、ご冥福を祈る。
人が生きていくためには、わずかであってもぬくもりがほしい。
そのあるかないかのぬくもりに頼ることで人は生きていける。

けれどもそのぬくもりがなかったり、ぬくもりの存在を実感できなければ、人はいともたやすく死んでしまう。
人はそんなに頑丈には生きていないのだ。

その頑丈でない人が生きていくためにわれわれはいろいろと細工をしてきていた。
その細工をなんだがつまらないように思いはじめて、このところ人はずっとその細工を壊し続けている。

家族の崩壊とは言うが、そう簡単に家族は崩壊しない。
コツコツとした長い努力の作業で人は自分自身で家族を崩壊させたのだ。
その崩壊の旗頭が発展であったり、進歩であったり、栄光であったりしたかもしれないが、人が生きていくための最後のよりどころはそんなに大げさなものではない。

残念ながら、エンリケにはそれが見えなくなってしまっていた。
そのことは同時に彼の妻の不幸でもあった。

哀しいな、どちらも。

ラベル:

第22期竜王戦

森内俊之九段相手の今期の竜王戦だが、昨日も勝ち、渡辺明が3連勝と星を延ばした。
もはや森内との格付けは終わっているような強さである。

もちろん将棋のことだから、紙一重(もう少し差があるかな?)で勝っているのだが、この紙一重が越えられない。
二日制の竜王戦では渡辺は鬼のように強い。
前回の対羽生戦、3連敗後からの4連勝で強さに拍車がかかった感じだ。

けれども、この男、それ以外の棋戦ではチョコチョコ負けるものだから磐石とはまだ言えないのだろうが、とにかく竜王戦に限って言えば、渡辺がタイトルを取られる気はまったくしない。

問題は一日制の対局ではどうかというところだろう。

ま、とにかく、今回の竜王戦、あくまでも渡辺は強く、森内は切なく負け続けている。

ラベル:

老人の犯罪

老人が食品を奪うという軽犯罪が増えている。
喰えないからな。

これは、犯罪なのだろうか。

一つは農業共同体の破壊。(商品経済に完全に飲み込まれていないような社会をイメージしてみてほしい)
その結果、都市に流れ込んだ人々の老齢化。
都市で老人になったとき、生き残れる条件には、なかなかに厳しいものがある。

一つは、結局のところ何のセイフティネットがなかったこと。
そして、最後に老人が増えすぎていること。

老人の増加は、それ自体が大きな問題なのだが、誰も直接的には触れない。
非人間的な発言になりそうだからだろう。

けれど、腹が減って、金がなければ握り飯の一個も奪うし、その結果つかまればつかまったで、刑務所なら飯を食わせてくれるから、老人の軽犯罪が一つの選択肢として登場するのは当たり前だろう。

わたしは無銭飲食が増加すると思っていたが、それほど厚顔なご老人はいないらしい。
老人たちの切なさが、万引きの増加にほの隠れして見えている。

ラベル:

2009年11月9日月曜日

酒で死ねれば本望

「酒で死ねれば本望」

今でもそんなことを言う人がいるのかな。
むかしは、ときどき、そういうことを言って飲んでいる、半分体壊した酔っ払いがいたんだよ。

そのころ、わたしはそういう人たちがうそ臭く見えていてね。
(オレ自身も十分うそ臭いのにさ)

それが、この頃、どうしてそんなにうその臭いがしたか少しわかってきたのです。

わかってきたことがいいことかどうかは別にして、これだけ長く疑問を疑問として体の中に住み着かせていた功績は感じる。

今はこう思う。(自分自身では)
「呑むことで死ねるのであれば、俺はいくらでも飲むのだがな」

けど、呑むことでは死ねないのだ、そううまくは。
というわけで
「酒で死ねれば本望」
となるかというと、これが大違い。

「酒で死ねれば本望」
には、なにか、酒では死なないような、死を願望していなくて、単にかっこつけているような、薄っぺらさが感じられるのだ。

本当に酒で死んでいく人は、自爆するように酒を飲んでいるものな。

そして、ここが大事だけど、その姿はひどくかっこ悪いんだ。

けど、かっこ悪くても仕方ないさ。
本人がそうしたいんだから。

「酒で死ねれば本望」
のうそ臭さ少し臭ってくるのかな。
あなたにも…

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人が死ぬ

先週の金曜日の夕べ、久々に行った居酒屋の店長と雑談をしていたときに人の死ぬ話が出て、そいつはレビ・ストロースのことを言っているのか、円楽のことを言っているのかと問い返したのだが、彼の話はもっと身近で、彼の勤めている居酒屋の経営者の息子が死んだと言うのだ。

その息子はもうすぐ20歳になる青年で大学の近くに下宿していたのだが、連絡が取れなくなったので気になって行ってみると部屋には鍵が閉まっていて、それを大家に頼んで開けてもらうと死んでいたという、そんな話らしい。
事件性はないということだが、いまどき20歳前後の青年が突発死するのかいと、少し驚いた。

言うまでもなく、犯罪も見境なく起こっている。
人の死に関して無関心な世代が育ってきているのだろうと思う。
それはもちろん犯人の問題でもあるのだが、この社会にとっての死がどんどん軽んじられているということでもある。

この社会の上のほうで、もう老人を長生きさせるのは止めようではないかという話が起こっているというのもまんざら嘘ではない気がする。
もちろん老人の中に話している彼らは入っていない。

そういえば、昨夜、隣家の灯りは一晩中ついていたし、今も消えていない。
雨戸が締め切ってあるので灯りを消し忘れて出かけたのかもしれないが、ふといやな思いも起こる。

だからといって、通報しようともしないわたしがいる。
わたし自身も、死に引き寄せられているうちに、死に対してずいぶん無頓着になってきたのだろうか。
身をもって、唖然とする。

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2009年11月8日日曜日

自己の目と他者の目

ヤンキースがワールドシリーズで優勝を収めたあとに松井秀樹に対するインタビューがあった。
このときのインタビューは、それほど悪いものではなかった。

そのなかで、今シーズン、正確には先シーズンから引きずった松井の怪我、故障に伴う苦労話に矛先が向かった。
このとき、松井はワールドカップのMVPを獲得しており、回顧談として聞くのにちょうどいい雰囲気もあったし、悪い質問でもなかった。

要はインタビュアーは、
「大変だったでしょう、苦労したんでしょう?」
と聞き、
松井は、しばらく考えて、
「…大変なことはなかった。ただ野球がしたいと思って努力していただけだったから」

こんな風に語った。

ここに松井とイチローの差を感じる。
以下述べるのは、両者の差であってどちらが上だとか上等だとかいう話ではない。

松井には常に他者の目、それはおそらく上質なファンの目が意識されているのだろう。
そういった目に包まれながらこの人は野球を続けてきたのだなと感じた。

同じ質問にイチローは松井のように答えなかっただろう。
その質問をつまらない質問と感じただろう。
イチローは武芸者であり、己との対話の中で自己を形成していく。
苦労とか大変は、わたしの問題であってあなた方に話す必要はないだろう、もっと言えば、そんなことは当たり前のことなんですよといったところだろうか。

もちろんイチローとてファンに対する感謝はあるだろうが、それは観客としてのファンだ。
自己に対して研ぎ澄ませ続けてきた人間と他者の目を自分の中にまで取り込んできた人間の差は、どこか離れていながら、ああ、そうやって生きてきたのか、そうやって生きていくのかと思わせた。

もともとわたしはイチローの贔屓だし、あの男の生き方がイヤではない。
そのわたしが、もう一度書いてみたい。

松井秀樹には幸せな野球人生がこれからも続いていってほしい。

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介護が介護であるために

それは介護でなくても同じだろうと思う。
ホームレスはハウスレスでないところに生きるすべがある。
ホームがなくなってしまった人間に物権としての家など何の意味もない。

そういうことを介護でも考えたほうがいいだろう。
長生きさせることだけが介護ではない。
長生きのための心地よさはあるだろう。
こういう風な感じだと心地よく長生きできるのだろうなという他者の視点としての心地よさだ。

まあ、それが今この世間を覆っている介護のほとんどだろう。

それでいいのだろうが、ここに一つの大きな問題があって、それは毎度書くように人口の問題なのだ。
この日本は、一体どれくらいの人間がひっそりと静まり返り、ときどき落ち合っては飲みながら歓談していけるのだろうか、そういう人口規模の話だ。

そういう生活にどうすればたどり着けるだろうか?
わたしは、この国を考えるときにいつもそれを思う。

人が己の身の丈にあう人生を全うしていけるだけの国を作っていこうではないかと。
そのために不必要な長生きもいらないし、富の偏在もいらない。

さて、きわめて唐突だが、ここに大きなヒントとしてのひとつの例がある。
以下にあげる。


医師・中村伸一が運命の出会いをしたのは、17年前だった。
医師になって3年目、京都との県境にある福井県名田庄村(現:おおい町名田庄地区)の診療所にただ一人の医師として赴任した。
以来、住民たちの命と健康を支え、時には逆に支えられながら、医師として成長してきた。

私見ではあるが、ここには介護の原型がある。
長生きをしようとして彼らは介護を望むのではない。
この名田庄村で生を全うしようとして、この村での最後を望んでいる。
その手助けを中村さんはしている。

この日本の中に生きているなかで、われわれが誇るべき人物だろう。(彼は嫌がるに違いないが)

彼の人生を変えたのは、彼の誤診の後に親族が吐いたひと言だった。
「誰にでもある。お互い様だ」

誤診をめぐる裁判沙汰が横行する今、誰がこのような言葉を吐くのだろうか。
名田庄村にはそれがあったし、今もそれがある。
それを彼らとともに中村医師は守っている。

そういう風に生きていける社会をわれわれはもう一度取り返せるのだろうか。
ふと、そう思う。

彼の生き方は一冊の本にする価値がある。
その本の中には、静かな今の介護政策に対する批判とはっきりとしない雰囲気ではあるが人をなんと思っているのだろうかという、これもまた抑えられた嘆きが聞こえてくるはずだ。

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洗脳

単なるテレビと言えども、日々癖のように流し続けていれば毒されていくだろうし、それを洗脳と呼んでいいのかもしれない。
映画はもっとそのたくらみがしっかりとしているのだろう。

もちろんそれ以外の見るに足るテレビ番組や映画はあるけれどもそれがどれかは選び取る能力がなければわからない。
選び取る能力をつけるためにはいいものを見ることに越したことはないが、この主張ってどこかおかしくはないかい?

だって、いいものがわかるためにいいものを見続けろだなんて。
そういう場合には先達が必要で、信頼できる人を持っていたいものです。

けれどもまあ、日々流されるテレビ番組は明らかに視聴者を見くびり、低俗へ低俗へと流れている。
たとえば、クイズ番組があるが、あんなものを見ておもしろいか?

クイズ番組の中で、おおっ、と思ったのは高校生クイズだ。
あの連中は一年に一回のクイズ番組のためにどれくらいの努力をしているのだろう。

総じて時の積み重ねを感じられない番組はおもしろくはない。
時は凝縮された時でもいい。
思いつきでは、ひと時の気散じに過ぎず、気散じで生きて死んでいくにはこの都会は無駄な虚飾が多すぎる。

そういえば、昔の田舎の気散じには味があったものだ。
消費文明が虚飾(いらないものを必要だと思わせる仕組み)を必要とし、その総体が都会と言ったことになるのだろうか。

砕け散ってしまえばいいのに。

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2009年11月5日木曜日

松井秀樹

松井のヤンキースとの契約は今年で終わり。
そして、契約更新されない可能性もある。

にもかかわらず彼の目下の状態は、打撃の調子は最高。
守備は足の故障に伴い問題あり。

現在、ワールドシリーズ第6戦中にて、勝利にばく進中。
もうすぐ世界一(=アメリカで一番)、所期の目的を達する松井。

知らなかったが、あいつはいい奴だった。
今後もヤンキースとの契約があるように願う。

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2009年11月4日水曜日

マカロニ・ウエスタン




マカロニ・ウエスタンと言えば、セルジオ・レオーネ「荒野の用心棒」を嚆矢とするが、なかでも、わたしは、リー・バン・クリーフが贔屓だった。
とにかくマカロニ・ウエスタンはあの男だった。
今度フランコ・ネロの「続・荒野の用心棒」を見て、それが何であったのかわかってきた。
リー・バン・クリーフには女が似合わないのである。
そこがなんとももてない男にとってはたまらないのだ。(もちろん、女ではなく妹はしみじみと似合うのだったが)
ところが、フランコ・ネロはもてるのだ。
それが、「Django(ジャンゴ)」をもう一つ好きになれなかった理由らしい。
けれどもいい作品はいい作品なのだ。
三池崇史が自分の映画タイトルにその固有名詞を入れたぐらいなのだから。
ただ、好き嫌いはいい悪いの外にあって、オレの好きなマカロニ・ウエスタンには「ジャンゴ」がいの一番に出てはこないのだよ、残念ながら。
そういうことってあるよな、とてもいい娘なんだけど性悪なあの女のほうが好きだってことが…ちょっと例がずれてしまったけどさ。

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茂木健一郎


先のブログで書いたとおり、茂木健一郎はどこか愚かなところがある。
そこがいいのである。
その愚かさが彼にいろいろなものに飛びつかせ、いろいろな言説を吐かせる。
ところが彼はその愚かさの一方に脳科学という武器を持っていて、その結果、ある程度の深度を持った話をあれやこれやと思いつき語る。
この思いつきはずいぶんと参考になるし、彼の本の中にはすばらしく参考になる一節がある。
けれども一角の人物と接するときを見ると、これがまさにマヌケなのである。
一角の人物というのは行と呼ばれるものを積んでいるが茂木氏はそうではない。
ただ、思いつきをぺらぺらと乾いた紙が燃えるように考えているに過ぎない。
過ぎないけれどもそこにはそこのすばらしさがある。
少なくともすばらしい発想の一端は見える。
人間としての茂木氏や茂木氏一党をわたしは好まないが、彼らに優秀さがあることは知っている。
人はいろいろあっていいわけだ。
それだけのことを繰り返しわたしは述べている。

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円楽

亡くなればだれでも名人ということはない。
落語界で名人と呼ばれる人はごく少なく、それを亡くなっただけの事で(怒られるだろうな、こんなことを書けば…)名人、名人とは片腹痛い。

円楽の師匠、六代目三遊亭円生は昭和の名人であった。
その円生の後悔は跡継ぎを作れなかったことだという。
つまり師匠の円生も円楽をまだまだと認めてはいなかったわけだ。

人間として?
そりゃあ、いい人だったに違いないし、ある意味、芸に打ち込んだに違いない。
けれども届かなかった。
なにが悪いかは素人のわたしにはわからない。

そのわからなさもわからない茂木健一郎という、うすらバカもいる。
それは、http://www.youtube.com/watch?v=TKjYi13QOPk
の8連続作を見ればわかる。

そして、この8連続作で名人と称される人間の気骨や容貌が見えてくる。

ま、そうは言ってはみても、ただこちらには見えてくるだけで、ご当人はそのようなこととは関係なく日々精進していらっしゃる。
それがいかにも頭の下がる風情なのであって、いやはや頭が下がる。

ところで、ここまで書いてはきたが、これは円楽氏の悪口ではない。
いつも語るところのマスコミの質の低さを揶揄している。

円楽氏を名人、名人と語っては円楽氏が可哀想ではないかといっているのである。

ついでに言っておけば、正蔵は下手糞である。
この人もあまり持ち上げるではない。

この間、プロスポーツを取るカメラマンと話していたら、マスコミはどうしてたいしたことのない選手を取り上げるかねえと嘆いていた。

言ってしまえば、マスコミなんざ、くだらんことしかとりあげない。
ところで、今の松井秀樹はいいねえ、泣けてくる。

大選手ではないかもしれないが、名選手であるには違いない。
そういうこともある。

だれか、大きな声で松井をほめないかねえ。

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生きているだけで仕合せ

そんな風に思えればとてもいいな。
そして、そのように生きている人には分け隔てなく仕合せがついて回ればいい。

生きていることに分け隔てを与えるのは、紛れもなく価値観で、その価値観は消費意欲につながっていたりする。
つまり何かを買おうとさせるような動機の基に作られた価値観、バーチャルな価値観であることが多い、人とは少し違う差別化だとかさ…。

バーチャルはとても大切なものだから、こんなところで無駄遣いはいけないな。
バーチャルはもっとすばらしいものを産み出してくれるはずだし、それは生きる手立てになる。

そういうものも一切なくなり、生きることから離れるのにためらいもなくなってしまえば、そのときには静かに死ねるといいけど、静かに死ぬ手立てというのもなかなかに難しい。

というわけで、元気に生きていますか?
みなさん。

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